占う人/占われる人のために

聖別の必要性

 タロットカードを扱う人は、購入したカードをすぐに使うのではなく、一旦俗界から引き離し、占いという特別な用途にそぐうよう整える。これを一般に聖別と呼んでいる。

 聖別のやり方はいろいろあり、むしろ人それぞれといっていい。聖水や香油を使う人がいれば、絹の布にくるんでカードが落ち着くまで安置している人もある。カードを一枚一枚めくりながら、カードの表現する世界との親密さを深めることもある。カードを前に瞑想する。香を焚く。もっとシンプルに、カードを抱きしめ、自分とカードの距離を近く、限りなく重なるくらいまで、一体化しようとするやり方もある。

 しかし、聖別とはどういうことなのだろうか。

私はしない

 私は聖別をしたことがない。タロットを買ってくると、箱を開けて、カードを一枚ずつ、最初の並びを崩さないように丹念に見ていく。もちろん手はきれいに洗って、――だがこれはタロットどうこうとは関係のないことだ。私は本を開くとき、大切なものに触れる前は必ず手をきれいにする。タロットにしてもそれは同じで、カードを見るのも、いわば画集や写真集を前にするのと変わりがない。自分がこれと思い手にしたものを、慈しむ気持ちで手にするのはだれしも覚えのあることだろう。

 私は、買ってすぐのカードでは占ったことがない。馴染ませるためだとか、自分がカードの世界に慣れるためだとか、そういうわけではまったくない。せっかく買ってきたばかりのカードが傷むのを嫌ってのことだ。シャッフルをすれたび、占うごとにカードは確実に傷んでいく。少しでもカードの美しい期間を長く置きたいという、まことにいじましい理由だ。だから、占うとなればカードは消耗品と割り切って使う。それは、読むたびに確実に消耗する本を、本は読まれるためのものと割り切り、読み潰すつもりで読むのに似ている。いや、それでもきっと丁寧には扱っているのだが。

カードに向き合う心

 私の、カードへの対し方を見て、それこそが聖別ではないかと思われる向きもあるだろう。だが私は私の行為を、聖別であるとは考えていない。私はカードに、ある種の可能性を見いだすとしても、決して神秘のものであるとは思わないからだ。ある種の可能性というのも、カードという物品に存在するのではない。私が、解釈者が、あるいは相談者がカードに向き合おうとする、その対し方にこそ可能性が発するのであるから。私にとってカードは、例えそこにどれほど神秘的な象徴が描かれていたとしても、物理的な対象に過ぎない。図像の印刷された紙片に過ぎないのである。

 だが、そのような私のカードの見方が、すなわちカードの軽視を意味しているわけでないことにご注意いただきたい。

 私は、単なる物品であるカードに、ある一定の敬意を払うことを忘れたことはない。私にとってカード、そしてあらゆる物品は、人間に向き合うときと違わない、意味あるものなのである。大切に思う人を決して軽んじないように、私は自ら選んだなにかをないがしろにはしない。それはつまりカードへの敬意であり、神秘や奉りとは異なる、もっと穏やかな慈しむような気持ちである。

結局聖別とは

 結局聖別とは、カードを使うものが、カードへの敬意をいかにかたちとして表すかに尽きる。私は聖別はしないという。だが私のカードへの態度は聖別にほかならない、そう言う人も少なからずあるだろう。聖別としてことを行おうとすればそれは聖別であり、同じことをしながらそれを聖別と思わなければ聖別ではない。ただの思いの持ちようの違いである。あえていえば、カードの聖性を信じるものにとっては聖別という言葉は自然であろう。聖性を見いださないものが、聖別という表現に抵抗を感じるのも不思議ではない。

 カードを通じてなにかを得ようというものにとって、カードはなによりのよすがであり、大切な道具であることはいうまでもないことだろう。自らのなりわいにかかる道具に敬意を払うことはいうまでもないことである。包丁人は包丁の手入れをかかさず、職人にとっても道具は特別な位置を占める。はじめて手にする新しい道具に、通過儀礼ともいえる最初の作法を決めている人は少なくないだろう。自分の納得できる結果を得るために道具を丁寧に扱うこと、調整をかかさないこと、これも同じだ。ただタロットにおいては、これらが聖別と表現されることが多いというだけである。

ホーム | 占う人/占われる人のために

公開日:2004.04.09
最終更新日:2004.05.14
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
This site KototoNe is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 2.1 Japan License.