占う人/占われる人のために

占い師はどこまで真実を話すのか

 相談者を前にして、果たして占い師はどこまで真実を話すのだろうか。この場合の真実とは、未来の予見の当否についてではなく、カードの出目をありのまま相談者に告げるか否かを問題としている。つまり相談者にとってあまりに不利なカードが出た場合、その不利であることを告げるかどうかである。

 当然のことだが、これは占い師の姿勢によって異なってくる。私の経験では、一般に占い師は出たままをそのまま告げる傾向にあるようだが、告げ方には占い師固有の程度差がある。悪い状況ひとつ告げるだけでも、そのまま悪いというか、よくない傾向があるというか、それだけで受け取る側の印象は違ってくる。

映画に見る一例

 占い師がどこまで真実を話すか。このデリケートな問題の答えを、ある映画の一場面から知ることができる。その映画とは『5時から7時までのクレオ (Cléo de 5 à 7)』、1962年のフランス映画である。アニエス・ヴァルダによって映像化されたこの作品は、非常に印象的なタロット占いの場面から始まる。

 ヒロイン・クレオを占う占い師の老婆は、まずざっと全体の状況を概観し、より詳しい領域に踏み込んでいく。二度目の占いでクレオは吊られた男皇帝魔術師の逆を引く。占い師は変化と苦痛、病、出会い、悪い巡りを予見し、さらに進んで状況を知るためにクレオにもう一枚引かせると、クレオが引いたのは果たしてであった。悲観するクレオに占い師は変化が訪れるのだと告げるのだが、彼女の本心はそうではなかった。クレオが退室してすぐ、彼女は別室の男性にあの娘はもうだめだ、癌だろうと話すのである。

占い師の言動をどう見るか

 占い師はカードの出目に凶相を読みながらも、相談者にはそうは告げなかった。嘘をついている、気休めをいったに過ぎない、そう感じる人もあるかも知れない。しかも占い師は、自身の身の上を悲観して泣く相談者に対し、不吉な占い師と思われては困るから泣きやんで欲しい旨を告げる。ここに占い師の自己中心性、偽善性を見るだろうか。

 なお私は、占い師の判断は比較的妥当であると考えている。タロットの示す範囲は広くあいまいであり、最終の判断は解釈者にゆだねられる。解釈者である占い師は、与えられた情報――相談者の現状や周辺のカード――をもとに結果を絞り込んでいくのだが、この時に先鋭的な解釈を採用するか、穏当なものに落ち着くかは、解釈者のスタンスによって異なってくる。私は後者に属する解釈者であるから、たとえ逆位置にせよを引き、さらにそこにが加わるような深刻な場面があったとしても、努めて不吉の相を前面に出すことはしない。つまり、映画に見た占い師の結論に極めて似たアドバイスを行うだろう。

相談者は自ら占うべきである

 私は常々、占いは相談者自らが行うのが望ましいといっている。懸案に関する情報を誰よりもつもの、それはほかならぬ相談者だからである。タロットに示される可能性を妥当なものとするには、豊富な関連情報が欠かせない。相談者自らがカードと向き合うことで、自分の問題が整理され、見えなかった状況が見えるかも知れず、得られた結論はその過程も含めすべて相談者のものである。そこには功名心に駆られての欺瞞もなければ、逃げ腰の微温的態度もない。カードの解釈より前に、目の前に座る占い師を解釈する必要はもうない。

 ただし、自ら占えばそれがすなわち真実につながるわけでもないから、そこは充分気をつけなければならない。占い師に求められる素養もさまざまだが、もっとも大切なのは、偏見を退け中立的に物事を見る態度である(知識、解釈力に優先する!)。が、自分の問題に対しもっとも中立的であれないのもまた自分なのである。故に、もし自分にその才がないというなら、自分で占おうとはせず、かかりつけの占い師をもつべきである。信頼でき、極端に走らず、そして自分に合っていると思える占い師を見つけ、継続的に見て判断してもらうほうが、ずっとよい結論を得られるだろう。相談者は解釈者の言葉の機微をとらえるだろうし、解釈者は相談者にとって妥当で有用なアドバイス――それはきっと真実に近づいているはずだ――をすることができるだろうためだ。

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公開日:2003.11.07
最終更新日:2003.11.14
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