占う人/占われる人のために

必然/偶然

 占いは必然のものか偶然のものか。このような問いがあれば、私は疑いなくそのたびに偶然であると答えるだろう。少なくとも私の行うタロットに関しては間違いなく偶然と言いきってよい。その場に現れたカードのすべては、たまたまそこに出てきただけに過ぎない。相談者の運命を映してなにか超自然の力によって選ばれたものであるなどと考えるのは、あまりにロマンティックに過ぎる感傷でしかない。

場に現れたカード

 しかし、多くの占い師がそうであるように私もまたいくぶんか感傷的であり(もちろんその度合いは個々人により異なるが)、占いにおける神秘を感じることはたびたびである。

 どのようなときに神秘を感じたのか。以下に挙げる実例をもって説明しよう。

 1998年の秋のことである。占っている私を訪ねてきた知人がいた。占いの列に並んで知人は、気を使ってかゆっくりと占ってもらいたかったからか、挨拶だけして占い待ちの列が終わるのを待つと申し出てくれた。私はそんな彼女に感謝をしつつ、彼女が列からどく前にワンオラクルをやってみせた。テーブルに裏向けに広げたカードから、任意の一枚を選んでもらう。

 選ばれたカードは、ペンタクルスの八番、正位置であった。私はこのカードを事物の習熟段階と考えるため、その通り彼女に告げた。事実、彼女は将来演奏家になることを目標にしており、このカードはその時点における彼女にふさわしいものと思えた。

 占い待ちの列が消えて、彼女がテーブルについた。彼女の興味はやはり自分の演奏家としての成功にあった。私はまず状況を見るべくカードを繰り、ケルト十字に並べていった。私は一枚ずつカードを開いていき、そして彼女の現状を示す位置に現れたのは、他でもないペンタクルスの八番、正位置であった。

偶然

 そのような経験がこれ以外にもいくつもあるというのに、それでも私はタロットのカードは偶然であると考える。言うまでもないことだが、タロットが占うその度に出る目を違える事実が、それが偶然にすぎないということを端的に物語っている。もしタロットが必然によって出目を決定するものというのなら、同一条件下においては同一の出目、極めて相似する結果が保証されなければならない。しかし、我々も知るように、タロットの出目は一定することは決してない。結局、これは偶然の事象にほかならない。

 しかし、タロット以外にも偶然の事象は存在している。それは、占いの対象となる現実である。人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以外のいくつもの人生と比べることができないために、それを偶然である必然であると言い切ることができずにいる。もしそこに必然があるのなら、同一条件下での百の人生は百度とも一度の人生をたどるはずだが、私たちにはそれが百のバリエーションを描くのか唯一の真実を表すか確かめることができない。分かっていることは、人生はただ一度しかないということであり、やり直しはきかず複数の可能性を試すこともできないということである。ただ一度の人生は、それが一度きりの出来事であるゆえに当事者にこそは必然と感じられるが、反面客観的に振り返ればただの偶然でしかない。事前に予測できず、後に検証することもできない以上、人生は偶然と結論するほかない。チェコの小説家ミラン・クンデラは、このような人生をとらえドイツのことわざを効果的に引用している。Einmal ist Keinmal. 一度きりはなにもないのと同じこと、人生もそのようなものなのではないか。

タロットの為すこと

 その一度きりの――予測もつかない――人生を、事前に把握したいという願望がすなわち占いである。人生には偶然によって引き起こされる要素があまりに多く突飛であるため、私たちはいつも後手に回り生じた自体に振り回される。それを苦々しく思う。少しでも人生の優位に立ちたいと思う。こうした思いが占いへの第一動機であるだろう。

 タロットや易などの偶然性に基づく占いは、人生という偶然の事象を占うのに非常に適している。

 さいころを考えると分かりやすいだろう。六面体のさいころの次の目を占うためには、実際にさいころを振ってみるのが一番である。ある可能性を同一の可能性によって知ろうというのであり、もちろんこの試みは正解もあれば外すこともまたある。この当たり外れに占いの本質が隠れている。

 私たちの未来に開かれた可能性を、図像や象徴、数に表現される可能性によって知ろうとするのがタロットである。だから七十八枚のカードには、人生に起こりうる可能性が同じく含まれていることが望ましい。あるいは、検証不可能の人生を偶然と結論してしまったのと同様、タロットを人生の写し縮図といってしまってもよいのかもしれない(いずれこれら両者を比較することなどできやしないのだから)。こうして我々占い師は、タロットのなかに人生における可能性の片鱗があるというかのように、それを手がかりに世界を読もうとしている。

 さいころの出る目を占ったときには多くはずれがあったように、タロットも外すときは外す。しかしさいころの出る目とは違い、カードの象徴の前には現実の事象が存在している。それを頼りに、象徴の示すあいまいな可能性をしぼり精度を上げる。この作業が、占いをただのくじ引きから世界を読み解く試みに変える。そしてこの試みが成功した場合などには、ロマンティックにすぎる私たちは、運命や必然、託宣といった言葉を思い浮かべてしいまうのである。

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公開日:2003.12.19
最終更新日:2004.01.09
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