舞台、基礎練、上達

 演奏する人間にとって、最後に行き着くところとは発表の場にほかならないだろう。友人の前、路上、あるいはライブハウス、コンサートホール。いずれにせよ、普段とは異なる場において演奏するという経験は、毎日の練習からは得られないなにかをもたらしてくれる。しかし、舞台にのるということはどういうことなのだろう。

舞台にのる

 舞台にのるという経験は特別で、その失敗できないというプレッシャーは、うまく作用すれば演奏者に度胸や自信を与えてくれる。舞台上で立ち往生するかも知れないという怖れ、不安は、練習をいつも以上にシビアにさせる。それゆえ場数を踏めば、それだけうまくなるともいえるだろう。そして舞台慣れ。舞台慣れしている人間とそうでない人間の違いは、越えてきた場数の差にほかならない。

 経験の効用とは次のあげるようなものだろうか:度胸、落ち着き、自信。緊張のコントロールも可能になれば、とっさのトラブルへの対処も心得たものだ。仮に足を出したとしても、リカバリーできるチャンスをうかがい、フォローすることも忘れない。あらゆる手段で客を自分に引きつけ、味方にすることもテクニックのひとつといえ、こうしたあの手この手を駆使できるのも、経験のなせる技なのかも知れない。

 なら、こうした経験を積めばそれだけうまくなるのだろうか? 否。そうではないから困るのである。

基礎練習

 本番を前にすると、客の目前で失敗することを恐れるあまり、普段の練習を早々に切り上げてでも、演目を練習しようというのが人情である。充分に時間、余裕があるなら話は別だろうが、私の経験上、準備に余裕があったためしなどない。そもそもから、完成にはほど遠いのである。完成にたどり着ける演奏者は、それこそ世界に幾人いるだろうか。一般レベルの演奏者には、どうあがこうと完成にたどり着くことができない。悲しいが、これが現実である以上、我々には常に時間が足りないのである。

 だから、少しでもましな演奏をできるよう、日頃の練習科目を削ってでも、曲の練習量を増やすことになる。しかし、これがいけない。日々の練習というものは馬鹿にできるものではなく、例えそれが単純な音階の上がり下がりだとしても、もう慣れきったアルペジオの練習であったとしても、無味乾燥な技術中心の教則本であったとしても、そうした基礎がないところによい演奏はならないのだ。残念ながら、我々一般レベルの演奏者には、常に基礎技術が足りないというのも現実であるから、演奏者を目指すものは基礎練習を欠かしてはならないのだ。

 だが、やむを得ない事情で、基礎練習を怠らなければならなくなってしまった。いつもなら全調のスケールをやるところを、指の慣らし程度で早々に切り上げる。こうした状況が、舞台のその日まで続くのだ。当然、基礎はどんどん駄目になっていく。曲の出来という見た目の上達のかげで、どんどん腕はなまっていくのである。

まとめ

 舞台には良い点も悪い点もある。舞台を経験しないでは得られないものがあり、しかし舞台一辺倒でも失うものがある。基礎がならないうちに舞台を重ねていけば、本当はできないことを、小手先の技術でごまかして身に付けてしまい、そしてこれが一番怖い。変な癖がついて、応用が利かなくなるのはこういうケースにこそ多いのだ。だから初学者こそ、曲の練習はあきらめて、基礎練習に専念すべきであると考える。

 実をいうと、私は先達ての演奏会を経て、自分の基礎を悪くしてしまった。演奏会を終えた今、リハビリに励もうと思う。きっちりと一定のテンポで、スケールを各音の粒もそろえてできるように、バランスも考えながら和音、アルペジオを響かせることのできるように。まずはこうした基礎に取り組んで、すべてはこの次であろうよ。


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公開日:2005.07.09
最終更新日:2005.07.09
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