借り物

 友人に教えてもらった話。ある高齢のヴァイオリニストが亡くなったのだそうだが、そのヴァイオリニストは自分の愛器を一緒に火葬するよう言い残したのだそうな。ヴァイオリンは故人の望みのままに火葬されたという話で、その楽器というのは軽く一千万はするような楽器だったらしい。

 この話を聞いて私はどう思ったか。私は、人間の業の深さにつくづく嫌気がさしたのだったよ。

私が死んだら

 もし私が死んだら、残される私の楽器はどうすべきなのだろう。答えは、自分の楽器をどう思っているかによって変わってくるだろう。

 私があの楽器を自分の所有と考えていたなら、もしかしたら私は老ヴァイオリニストと同じ選択をするかも知れない。私はものに魂を引かれているタイプの人間で、一度手にしたものは手放そうとしない。これは楽器にしても同じで、手に入れれば私のものだ。誰にも渡さない、誰にも触れさせない。人が見たら蛙になれ――。

 本来、私はそうした業つくばりの欲深なのだが、しかし死んだときには、すっぱり楽器は手放したいと思っている。

 なぜそのように思うのか。それは、私はあの楽器を私の所有品と考えていないからだ。確かに現在の所有を考えれば、間違いなくあれは私の楽器である。しかし考えてもみよう。楽器の寿命は私の命をはるかに凌駕している。私の楽器は、私の死後も、手にして弾く人間があらば、何年何十年と生きるのだ。私が五十年で死んでも、楽器は百年を生き抜くだろう。その楽器の命を奪うことは私にはできない。

 考えてみよう。あの楽器ができあがるのに要したものを。職人の技術、手間、経験がある。木材がシーズニングされるまでの時間がある。そして何十年あるいは何百年という長い時間をかけて育った木の命がある。

 ギターは、それも特によいギターは、樹齢数百年という木から作られている。こんなことを聴いたことはないだろうか。ヴァイオリンの名器ストラディバリウスは、材料の木が育つことでよい音を出す楽器となったということを。楽器は、材料の木が育ってきたのと同じだけの時間をかけて成熟していく。17世紀に作られた楽器が、21世紀の今、あれだけの音色を放つのは、木の育った数百年という時間が楽器に働き掛けた結果である。その数百年の間、奏者とともに育ってきた結果である。

 もし私が、自分のつまらない体と一緒にあのギターを焼いてしまったらどうだろう。楽器とともに、数百年を生きて切り倒された木の時間が失われてしまう。ただの灰になってしまう。育った時間と、これから育つ時間がふいになってしまう。

 私は、私の楽器を所有しているようで所有していない。楽器は材木として切り出された松やローズウッド、マホガニー、黒檀の時間を内包して、――私はこうしたものを所有しているとは到底思えず、ここしばらくのわずかのあいだ、借りているとしか考えられない。

 だから、私が死んだら、この楽器は返そうと思う。次の奏者の手に落ちるように、できればよい奏者の手に落ちるように、楽器をあるべき場所に返して、そうして私はただ一人で死のうと思う。人間、死ぬときくらいは一人で充分。そこに、私がギターを弾いてきた時間が加わるのだから、それ以上に望むものはなにもありはしないよ。


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公開日:2005.09.05
最終更新日:2005.09.05
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