『グレン・グールドの音楽思想』

――20世紀後半における音楽受容の一局面

 二十世紀における音楽にかかわるテクノロジーの発展は、録音再生技術や放送メディアを生みだし、結果として聴取行為の変容をきたすこととなった。

 聴取層の拡大と消費社会の成立が音楽大衆を音楽社会の担い手へと変え、十九世紀に否定された表層的聴取がはからずも復権することとなった。この表層的受容は音楽から価値の序列をうしなわしめ、カタログ文化をうみだす契機となった。

 グレン・グールドは、その異彩を放つ演奏の他の誰とも違うという性格により、カタログ文化において、その消費価値を高めていた。彼のコンサートを否定しレコードや放送などのメディアに傾倒していくさまは、彼をして現代のテクノロジーにより主導される音楽の時代の典型であるという印象を与えた。彼がレコーディングの際に編集を縦横に駆使していたという周知の事実と、テクノロジーが聴衆をただ音楽を拝するという立場から解放するだろうという彼の主張は、グールドが音楽に対する即物的な関わり方、そして聴衆が自分勝手な聴き方を可能にしているという、現代的な音楽の在り方を表していると理解されてもきたのだった。

 しかし、その理解は一面的なものにすぎない。グールドが問題としていたものとは決してテクノロジーや編集などの、音楽に対する手段ではなく、音楽自体という、音楽の本質的な在り方、かたちであったのだ。グールドがテクノロジーを駆使し音楽を切り刻み継ぎ接いだのも、その音楽自体をなによりも重視した結果であり、テクノロジーが聴衆の在り方を変えるという主張も、人がその音楽自体を求める体験のなかで陶冶されることを期待してのことだった。

 彼にとってなによりも大切だった音楽自体と、その音楽自体に出会うことのできる自律した個人を生み出すための手段としての孤独、それらを彼はあらゆるメディアによって表してきた。しかし彼の主張は彼の音楽にこそ強く息づいている。彼の演奏が求める音楽に根元的に向き合う体験こそが彼のいうエクスタシー体験だったのである。

 しかしこのグールドのいう音楽体験、営為と彼自身の身体感覚は、奇妙なまでの非整合性を見せる。彼が生涯囚われていた身体と意識が分断されたかのような身体感覚と、それを補おうとするかのような身体と意識の融合、融和を目指す彼の音楽体験。この彼の音楽に見出される分別を超えようという試みを探究することは、新たなグールド像、ひいては音楽の新たな在り方に到らせることを可能とするかもしれない。この論文での結論は、グールドにとっての音楽は、自己の身体と意識が統合される特別な場であった、というものである。また彼の音楽とは、彼の弁によれば、彼の自分勝手な恣意的な解釈に基づくものではなく、音楽自体の要請により成り立つものであった。この二つの性質は、中国の道教の思想に通ずるものを感じさせる。

 以上のことから、東洋の禅、武術(武道)や芸道に見られる「実践により境地に到る」という思想とグールドの音楽との間にある共通性を探り、またそのことをもってグールドが脱西洋的でありながら且つ西洋的に立脚する、西洋と東洋の狭間に位置していたと論証できれば、と考えている。


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公開日:2000.08.20
最終更新日:2001.09.02
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