西へ向かう

 いけるときにいっておかないと、次、いついけるかわからない。基本的に面倒くささを嫌う私が旅に出ようというのは、そうした頭があるからだ。旅は面倒くさい。諸手続き、日程調整、荷物の準備、予算の工面、旅先での安全確認もろもろ。そもそも日常の乱されることを好まない私がそれでも旅に出ようというのは、旅先で出会うかも知れないなにか、もの、こと、ひとに対する期待や興味が面倒くささを上回るからだろう。

 基本的に毎日が同じことの繰り返しである日常は、単調であるがゆえに退屈で、だが変わりなく見えるからこそ価値がある。対して旅はというと、日常を破るがために面白く、自分自身を相対的に見つめ直すきっかけをもたらしてくれるところが価値だ。だから折りに触れて私は旅に出たくなるのだが、普段なら面倒くささに屈してしまい旅への憧れは憧れのままで放置される。私には踏み切るための後押しが必要なのだ。

 旅に出るという計画に乗るのが楽だ。自分は計画しない。人の計画に便乗して動く。しかし私はどれほどわがままにできているというのか、旅先でのお仕着せ、定められた行動に従うのがいやでたまらない。おおまかな枠の中で動くのはいいが、連れ回されるような旅はごめんだ。そこには限定された出会いしかない。旅の旅らしさが失われている。と、このように考えるのならはじめから自分ですべて計画すべきなのだが、億劫がって動かないからなにより悪いのが自分自身だということははじめからわかっている。

 それがどんな旅であっても、旅の空の下での私は、日常の私よりもずっと健康で健全なのだと思う。些事にとらわれることがない。やらねばならないということがない。心が自由であると感じ、心が自由ならば体もやっぱり自由なのだ。身体の欲求に素直である。すると心は穏やかである。旅で私は私の失われた人間性を取り戻して、そして再び日常に戻ってくる。少し違った私になって帰ってくる。


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公開日:2006.09.23
最終更新日:2006.09.23
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