宮澤賢治生誕百年記念レポート

「宮澤賢治の作曲」


レポート目次


はじめに

みやざわ‐けんじ【宮沢賢治】・・ザハ・・ヂ
詩人・童話作家。岩手県花巻生れ。盛岡高農卒。早く法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身。詩「雨ニモマケズ」、童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。(1896-1933) (財団法人 新村出記念財団 1993

 広辞苑において宮澤賢治は、以上のように記されている。確かに賢治は現在では童話作家、詩人としてよく知られている。しかしその半面、彼が「農村指導者」として生活していた時代や、農学校で教師をしていた時代に盛んに音楽に関与していたことは、あまりに知られていない。

 このレポートは賢治の音楽家としての側面に光を当てることや、また彼の音楽観を述べることを目的としていない。このレポート中で問題とされることは、賢治の行った作曲(『校本全集六巻』に、彼の作曲した、あるいは既存の曲に彼が作詞をした、歌曲の楽譜が掲載されている)における、日本の伝統音楽との接点である。しかし、その彼の音楽活動において重要な位置を占めるであろう、農学校教師時代、および羅須地人協会時代も取り上げなければならない。よってこのレポートは、

の、三章によって形成される。第一章では簡単に彼の人生を概観し、第二章において、さきにも述べた彼にまつわる音楽のトピックに触れてみる予定である。そして最終章にて、宮澤賢治の作曲した歌曲の分析、および考察を行う。

宮澤賢治、その人について

初期

 宮澤賢治は、今から百年前の1896年、八月二十七日に岩手県の花巻に、父政次郎、母イチの長男として生まれている。戸籍簿には八月一日出生と記されているのだが、これは当時、届け出といったものが厳密には行われておらず、かつ地方というものにおいてはのんびりとした気風があったことから、この様なことはしばしば生じた(萬田 1986)。事実として、賢治の出生時に政次郎が商用で関西方面に旅行中であったこと、出生直後に陸羽大地震があったことなどから、二十七日出生が正しいとされている(『校本全集十四巻』)。

 宮澤家は当時、質屋および古着屋を営んでいたが、小学生時代の賢治はその商売そのもに対する多少の嫌悪を感じていたようである。そしてそのことは賢治の、父への反発や、後の宗教への傾倒につながっている。小学生時代の賢治は病弱で内向的な少年であり、宮澤商店の長男であったことから、行儀面や健康上の理由により外で遊ぶことが少なく、一人遊びをすることの多い少年であった。学業面では全教科で甲をとるなど優秀であり、小学校卒業時には成績優等と精勤で表彰されている。

 賢治は1909年に、岩手県立盛岡中学校に入学する。賢治は学校の規則に従い寄宿舎に入る。そしてその当時に作られていた短歌から、彼の、父の支配から抜け出ることの喜びがわかる。賢治は中学に入っても小学校時代と変わらず、優秀な成績を納めているが、学年が進むと、成績が低下し、欠席も多くなり始める。この成績の低下は中学校二年のときの岩手山登山で、山の魅力に取り付かれた賢治が、山へのめり込んだためとされている。賢治の宗教への傾倒は、この時期より始まる。もともと信仰のあつい家庭で育った賢治だったが、英語の教師であったタッピング牧師の教会のバイブル講義に出席したり、盛岡天主公教会の司祭であったプジェとも交流があったことがわかっている。もしかしたら賢治の音楽体験はこの時期の教会詣でが始まりであったのかもしれない。

 1915年に、賢治は盛岡高等農林学校に入学する。ここで賢治は、人づきあいの苦手さから孤立し、宗教にのめり込んで行く。しかしこの当時、彼の信仰していた宗教はキリスト教ではなく、仏教のさまざまな宗派に揺れながらも、しだいに法華経へと向かっていく。この高等学校時代には、賢治の文学における一つの転換が見られる。それは、友人である保阪を中心に、同人誌『アザリア』が創刊され、賢治自身の詩作も短歌から散文へと、そして「初期短篇綴」が発表されるなど、彼の作風も変わっていった。

 1918年に、賢治は盛岡高等農林学校を優秀な成績で卒業し、地質土壌、肥料研究のための研修生として在学を許可されている。同年の一月に賢治と父政次郎は将来の問題、職業の問題を話し合っていたのだが、折り合わず、結果賢治は、自らの望む「実業」「化学工業」の道とは違う、興味の持てない「研究生」にならざるを得なかった。そしてこのことは賢治の父の望む道であった。なぜなら政次郎は長男である賢治の徴兵検査を延期することを望んでいたからである。しかし賢治は父への反発やその律義な性格から、同年四月に徴兵検査を受け、第二乙種により兵役を免除される。この年の八月に、賢治の童話初期作品である「蜘蛛となめくぢと狸」及び「双子の星」が、家族の前で発表されている。

 1918年十二月、東京の日本女子大学に学んでいた賢治の妹トシが入院するとの知らせがあり、母イチと賢治は急遽上京する。賢治はこのとき自分の新しい職業として宝石商を商うことを許可してほしいと、父政次郎に盛んに手紙を送っているが、許可は下りなかった。1920年に賢治が盛岡高等農林学校の研究生を終了したときに、助教授へ推薦するという話があったが、これは父子ともに辞退している。結局賢治はトシが退院すると、父の命令どおりに花巻へと戻り家業の店番をするのであるが、その孤独さから法華経へと深く傾斜して行く。この年の十二月にかなり国体主義的な宗教団体、国柱会に入会したのも、父への反発や、自らの救いを求める心からである。この年が明けた1921年、賢治は家で同然に、上京する。

中期

 1921年一月から、同年八月まで賢治は東京に滞在する。状況の理由として、以前から賢治が父親のもとより独立したいと思っていたということ、妹トシが花巻高等女学校に教師として就職したこと、がきっかけであったと考えられる。そしてこの時期は、賢治の童話の大半が執筆された時期である。しかしその半面賢治の精神状態は芳しくなく、この年、友人保阪と決別している。

 賢治が八月に帰郷した理由は、妹トシの病気の知らせを受けたためである。しかし、その知らせが賢治の帰郷の唯一の理由というわけでもなかったようである。彼が十月には帰郷するつもりであったことは、当時の賢治の出した手紙からわかっており、その原因として、滞京次の作品「革トランク」の主人公平太に投影されている挫折や苦労に打ちひしがれる賢治の姿や、友人保阪との決別、経済的切迫などの現実的な苦境などの理由が挙げられている。

 賢治が帰郷したとき、トシの病状は小康状態であった。賢治は東京には戻らず、家にとどまっている。彼は家業以外の仕事にはつかず、創作活動に取りかかっている。その当時書かれた作品が、童話集『注文の多い料理店』に収められた短篇、九編である。雑誌「愛国婦人」九月号に応募童話「あまの川」が掲載されたのもこの年であり、同「愛国婦人」十二月号及び翌年一月号に童話「雪渡り」が掲載されている。この「雪渡り」が掲載されたことで得た原稿料、五円が彼の生前に得た唯一の原稿料になる。

 1921年十二月に、稗貫郡立稗貫農学校の教師就任の話が持ち上がり、賢治は教師という職を思いがけず手に入れる。賢治の担当教科は、主に作物、肥料、土壌、英語、代数、化学、農業実習などであった。小学校教員の給料が四十五円から五十五円であったこの時代に、初任給八十円という破格の高級を得ていたことがわかっている。

 教壇に立ったばかりの賢治はかなりの早口であったことから、授業に対する評判は良くなかった。当初賢治は教師という仕事を快く思っていなかったようであるが、しだいにそのおもしろさに引かれ出し、それに従い授業も良くなっていったようである。賢治の授業風景は、「台川」「イーハトーボ農学校の春」「イギリス海岸」などの作品に詳しい。

 1922年十一月二十七日、妹トシが肺結核のために死去する。家族が浄土宗である中で、唯一賢治と同じ法華経を信じ、賢治の作品を支持していた妹トシの死は、賢治に大きく影響を与えている。学校の寄宿舎舎監を理由に家に寄りつかなくなり、後の詩作や「銀河鉄道の夜」の中にトシの影が見え隠れするようになる。

 1924年四月、賢治は心象スケッチ『春と修羅』を一千部自費出版している。そして同年十二月には、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』が一千部自費出版されている。しかしその作品は一般に理解されることはなく、賢治はそのことから絶望へと傾斜する。

 1926年三月、賢治は教師を辞める。その理由は、賢治があくまでも「実業」的職業を望んだことであり、1925年に賢治が生徒宛てに書いた手紙の「教師など」という言葉からも、非生産職業を嫌い、生産職業にあこがれる彼の姿を見てとることができる。

 教師の職を依願退職という形で辞した賢治は、同1926年八月に、羅須地人協会を設立する。羅須地人協会時代、賢治は農民に科学や稲作法を教え、農民芸術を提唱した。そして彼自身農民になり、農村の振興に力を注いだ。しかしこの賢治の努力は農民たちには受け入れられなかった。農民になったと自分で思い込んでいる賢治と、実際の農民たちとの間に大きなギャップがあり、それが農民たちの反感を買ったのだ。そのギャップとは、あくまでも有産者である賢治が、当時の農家ではとうてい買えるはずもないリヤカーを引き、雪菜やヒヤシンスを配り歩いたことや、賢治の生活感の欠如などである。しかも不幸なことに、1928年の夏、日照りが続き井戸水が枯渇し、陸稲、野菜が全滅し、稲熱病発生から水稲も打撃を受ける。賢治は稲熱病予防と駆除のために、村々を奔走するのだが、病に倒れてしまう。

晩年

 1928年夏に疲労から発熱した賢治は、四十日間床に伏し、同年十二月には、急性肺炎にかかり自宅で療養する。翌1929年は、前年に引き続き旱魃。1930年八月、「文語詩編」ノートに、「八月、病気全快」と書かれるが、それまでの無理が彼の命を削った。健康上の理由から賢治は農民生活から遠ざかり、同年九月に東北採石工場を訪ねた。この採石工場は肥料用の石灰や、家畜飼料のカルシウムなどを製造していたのだが、この工場に彼が興味を持ったことは、彼がまだ農業への未練を抱いていたことを示している。翌年の1931年二月に、賢治は東北採石工場の技師となり、石灰の宣伝販売を行っている。同年四月に発熱。同年九月に、仕事上の理由により上京するが、発熱。死を覚悟し、家族宛の遺書をしたためる。九月末に帰郷するも、自宅にて臥床する。有名な「雨ニモマケズ」はこの時に書かれたものである。この年の八月、岩手県は大洪水により、凶作。

 1932年に入ってもなお、賢治の容体は良くなかった。しかしそれでも湯本村の肥料相談に応じている。二月以降、創作、工場での仕事ともに、続けられるが、賢治自身の死の予感は消えず、胸の病も癒えなかった。

 1933年、賢治は本を出版する希望を保ちつつ、しかし健康に対する心配も捨てきれない。同年三月二十日付発行の『現代童話名作集』の、上巻に「北守将軍と三人兄弟の医者」、下巻に「グスコーブドリの伝記」が収録されている。八月十五日に「文語詩稿 五十篇」の推敲が終わり、二十二日には「文語詩稿 一百篇」の清書を終えている。賢治は九月十七日からの秋祭りを楽しむが、夜の冷気が触ったのか、九月二十日に賢治容体急変、急性肺炎と診断される。短歌二首を墨書する。翌二十一日、午前十一時三十分、「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する賢治の声がする。賢治容体急変、喀血。父政次郎、賢治の遺言を書き取る。午後一時三十分、宮澤賢治死去。この年米作は、岩手県初めての大豊作。

第二章 宮澤賢治と音楽

 宮澤賢治と彼の音楽観を考察するにあたって、必要と考えられる要素は四つある。それは

である。

 この章では以下を、前述の四つの要素に即した四つの節に分け、記す。

レコード収集

 『校本全集十四巻』の年譜に付されている注によれば、賢治の初めて聴いた西洋音楽のレコードは、1918年頃に従弟の岩田豊蔵が所蔵していた「フィガロの結婚」「スイミング・ワルツ」「アイーダ」である(『校本全集十四巻』:552)。同じく『校本全集十四巻』の年譜によれば、賢治のレコード収集は1922年二月頃より開始されており、やがて花巻随一のコレクターになったとされる。賢治のコレクションの一部は、「レコード交換規定」の交換用紙に記されている(「レコード交換規定」については後述)。その「レコード交換規定」の交換用紙に記載されている曲目は全部で、「ヅヴォルジャク「新世界交響楽」、ベートーベン「第五交響楽」、ベートーベン「第七交響楽」一、三、四、楽章、ビゼー「ミヌエット」、ラクマニノフ「セレナイデ」、メンデルスゾーン「春歌」、ベートーベン「土耳古行進曲」、パデレウスキー「ミヌエット」、リスト「ベニス ト ナポリ」、カラーチェ「ボレロ」等、ベートーベン「月光曲」、リムスキーコルサコフ「シャゼルラーデ」、ワグナー「タンホイゼル序曲」、ショパン「マゾルカ」、支那劇「天女散華」等、ポッパー「ハンガリアンラプソディ」、ベートーベン「第四交響楽」等、ストラウス「ドン ファン」(『校本全集十二巻』:172)」である。この他に遺品として、「ベートーヴェン「田園」、シューベルト「未完成」、リヒアルト・シュトラウス「ドン・ファン」、ドビュッシー「牧神の午後」、などがあり、弟清六の「兄とレコード」(「四次元」五七号)中に思い出されるものとしてベートーヴェン「レオノーレ序曲」「エグモント序曲」、ハイドンのクワルテット「雲雀」、チャイコフスキー「第四交響曲」、英国盤の「月光」「運命」、あるいはよくなった国内発売物の「第九合唱」「荘厳ミサ」などを拾い出すことが(『校本全集十四巻』:552-553)」できる。『宮沢賢治の音楽』によれば、賢治が友人達に贈ったレコードとして、ベートーヹン「交響楽第五」「ビオラとセロに対する二重奏曲」「ソナタ・ト長調」「レオノレ第三」「スコットランド風の歌曲」、ヘンデル「第四オルガン司伴楽」、シューベルト「アヴェマリア」、ヴェルディ「リゴレット抜萃曲」、ワーグナー「ローエングリン抜萃曲」、シューベルト「シューベルトの夢」、ボローディン「中央アジアの曠野にて」、ドビュッシー「ノクテユルヌ」「前奏曲『牧神の午後』」、ビゼー「アルルの女」、シュトラウス「死と浄化」、バッハ「中音に対する歌謡曲」、ストラヴィンスキー「火の鳥」などがあり、賢治が清六に遺したレコードの中に、グルック「オルフェオとオイリディケ」の名もある(佐藤 1995)。さらに、賢治の文学作品と関わるものとして、詩に関係する、メンデルスゾーンの「Rondo Capriccioso」、ベートーヴェンの「Egmont Overture」、ワイトトイフェルの〈l'estudiantina〉、作曲者名は書かれていなかったが「ノクターン」、劇・童話の音楽である、P・リース「Hacienda, the society Tango」、F・オーステッド、E・グラッドストーン「The Cat's Wiskers - Fox Trot(猫のひげ)」、G・エヴァンズ「In the good old summer time」が確認されている(佐藤 1995)。

 以上の曲目を見ればわかるように、賢治は狭義のクラシック音楽を中心に、様々なジャンルのレコードを集めていた。その中には1910年に初演されたストラヴィンスキーの「火の鳥」など、賢治と同時代の作曲家の前衛作品もあり、童話「セロ弾きのゴーシュ」にでてくる「愉快な馬車屋」という曲をゴーシュがジャズであると指摘することから、賢治が当然ジャズにも触れていたことが推測できる。即ちそれらの事柄から、賢治の興味が多岐にわたっていたことを推測することができる。しかし佐藤の指摘によれば、賢治はレコードを数度聴くと友人に贈るか売却をしていたため、彼が所有し聴いていたレコードがどれだけあるのか、正確にはわからない。『校本全集十二巻下』の校異に、「本稿記載のレコードについては、鈴木啓三氏等のご教示を得て調査中である(同:422)」ため、現在配本されている、『【新】校本宮澤賢治全集』に期待したい。

農学校教師時代の、音楽演劇教育

 農学校教師時代に賢治は、演劇や音楽、ダンスなどを教育の一環として取り入れていた。その証拠として、賢治が保阪に当てた手紙の中に、「芝居やをどりを主張して居りまする。(『新校本全集十五巻』本文篇:220)」とある。

 賢治が最初に生徒のために戯曲を書いたのは1922年の三月とされている。その内容は英国皇太子の来日をテーマにしたものであったが、残念ながらその脚本は未発見である(『校本全集十四巻』発刊時現在)。その後に賢治が創作した戯曲、演劇を列挙してみると、1922年六月二十日「コミックオペレット「生産体操」(後に「饑餓陣営」と改題)草稿、同年九月「饑餓陣営」を上演、1923年五月二十五日「異稿 植物医師」、「饑餓陣営」と共に上演(「異稿 植物医師」は、おそらく1922年中に書かれたと思われる英語劇「植物医師」を、生徒の語学力が追いつかなかったために、変更したものである。しかし大幅な変更があり(舞台がアメリカから盛岡市郊外などに変更されている)、ストーリーもまったく異なっていたため、賢治の生徒であった松田奎介によって、また別の「異稿 植物医師」も書かれている(『校本全集十四巻』:739)。)、1924年八月十日から十一日にかけて、「饑餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヵ原の夜」を上演、この他に「山猫案山子」というものがあったが、原稿未発見のため詳細は不明。「ポランの広場」のキャストの中にオーケストラ指揮者というものがあり、これにより1924年にはすでに器楽による合奏をしていたのではないかと推測することが出きる。賢治のこれらの演劇の中に、賢治が作曲したものや、あるいは既存の曲に賢治が作詞した歌曲が使用されているのだが、これについては後述する。

 保阪への書簡に見られた「をどり」についての記事は、畑山博の『教師 宮沢賢治のしごと』に見いだすことができる。それによると、「皆で講堂に集まって、〔略〕先生(宮澤賢治のこと:筆者注)が持ってきた蓄音機にレコードがかかって、〔略〕盆踊りのような、阿波踊りのような、スクエアダンスのような何かふしぎな踊り(畑山 1988:105)」を踊ったとある。しかも、それは「しょっちゅうやった(同)」のであり、そのことからも賢治が生徒に音楽(おそらく洋楽)を多く与えていたことがわかる。

 賢治の行っていた演劇教育は、学校劇禁止令によって中断され、そのため校内音楽団が作られた。当時賢治の生徒であった「根子吉盛の記憶によれば、それは一〇人の編成で、他に楽器は、バイオリン、笛、琴、オルガン、セロ、ハモニカなどがあった(畑山 1988:116)」とされ(根子吉盛自身は、シロホンを担当)、その練習は火曜に決められていたらしい。『校本全集十四巻』からその記事を引用すると、

 伊藤克己の「先生と私たち」(三一年版全集別巻『研究』二七八頁)によると「毎週火曜日の夜集まつて練習を続けた」とあり、そのメンバーは、

であったされている。さらにその記事の中には、マンドリンや木琴などの楽器の名もあり、それらの楽器は賢治が調達したものである(『校本全集十四巻』:594)。しかし後者のメンバーの中には前者の根子吉盛の名がないことから、もしかしたらこういう音楽団は複数存在したのかもしれない。

 これらの楽団は特に目立った活動をすることもなく消滅をする。消滅の理由として、社会主義教育を行っているという風評や、花巻警察による事情聴取があったというそれらの事柄が挙げられるであろう。

羅須地人協会時代の、農民芸術思想と音楽に関連する活動

 羅須地人協会に関わる賢治の記述の中に、「農民芸術概論」「農民芸術概論綱要」及び「農民芸術の興隆」というものがある。これらは岩手国民高等学校や羅須地人協会で講義されたものであり、「農民芸術概論」は賢治生前には公にされなかった。講義の内容は、様々な芸術に関係するものであり、その中に音楽についての講義もあった。それについては『校本全集十四巻』に収録されている伊藤清一の「講演筆記帳」(『校本全集十四巻』:750)に詳しい。

 ここでの賢治の活動は、主に農学校教師時代に行っていた活動を発展させたものである。即ち、演劇を行い、合奏をするなどであり、そのほかに前述の講演などによって農民への啓蒙活動も行っていた。その本意として、農民の生活の中に新しい文化を創造することが正しい労働生産が行われるための道である、という考えがあった。その証拠として挙げられるものに、前記の「農民芸術概論綱要」がある。「農民芸術概論綱要」の「序論」には「もっと明るく生活をする道を見付けたい」とあり、同じく「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の興隆」では「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである」とされ、その現状を打破するために、「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」とある。さらに「農民芸術の本質」において、「かくてわれらの芸術は振興文化の基礎である」とされている(『校本全集十二巻上』)。

 では、賢治が実際に行っていた活動についてであるが、前述の演劇や合奏以外の重要な活動として、レコードコンサートをあげることができるだろう。1926年四月一日付の「岩手日報」朝刊に、賢治に関する記事があるが、その中に「レコードコンサートも月一回位もよほしたいとおもつてゐます」とあり、実際に行われた初のレコードコンサートは同年の五月十五日であったとされる。一回目のレコードコンサートの内容は、ベートーヴェンの交響曲やバッハのオルガン曲であったという。レコードコンサートで賢治は、レコードをかけるだけではなく、自ら楽曲の解説をしていたという。

 羅須地人協会時代の賢治の活動として忘れてはならないものに、「レコード交換会」というものがある。「レコード交換会」とは、羅須地人協会での「持寄競売」という企画が発展する形で、1927年十月二十一日に作られたものである。その会の会則とでもいったものが、前述の「レコード交換規定」である。それに付随するものとして賢治が供出したレコードを記す「レコード交換用紙」があるのだが、売れゆきははかばかしくなく、売れ残りもあった。会員は「レコード交換用名簿」とされる用紙により、七名確認されるが、レコード交換会自体が頓挫する。

賢治の音楽活動

 賢治自身の音楽活動はどのようなものだったのだろうか。賢治がオルガンとセロを弾いていたということは、農学校時代の証言によって確認されており、実際、後の書簡にも、セロやオルガンのレッスンという記述が見られる。賢治の受けたレッスンにおいて重要な時期は、羅須地人時代であり、さきに述べた書簡はこの頃に書かれたものである。1926年に賢治はセロを持ち上京するのであるが、その時教え子の沢里武治に「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」(『校本全集十四巻』:600)と言っていることから、この時期が賢治の音楽体験において重要であるという証拠になるであろう。オルガンのレッスンは数寄屋橋そばの新交響楽団練習所で行われていたことが、十二月十二日に父政次郎宛に書かれた手紙によってわかっている。しかしその書簡ではセロについては不思議なことに書かれていない。『校本全集十四巻』年譜によると、「予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓がそうである(『校本全集十四巻』:601)」とあり、セロの特訓は、上京時にわざわざセロを持参したにも関わらず、まるで予定しなかったことのように書かれているのである。その時賢治がセロのレッスンを受けた教師は、大津三郎であり(佐藤 1995)、賢治が大津三郎にレッスンを受けた期間は三日間であった。しかし、『新校本全集十五巻』校異篇によれば、その時の大津三郎の記述のあいまいさや、周りの上京もあわせ見て、翌年の1928年にもレッスンを受けた可能性があったとある。

 それ以前のレッスンについては不明であるが、1926年の上京時の賢治の言葉から考えるに、1926年以前にもなにがしかの音楽レッスンはあったのかもしれない。その可能性を示す資料として、賢治によって抜粋筆写された、平井保三著「ヴィオロン・セロ科」がある。詳しい内容は記さないが『校本全集十二巻下』の校異によれば、「ヴィオロン・セロ科」の筆写時期は、1925年から1927年とされている。即ち可能性として、賢治がまだ農学校で教師をしていた時期に筆写され、独学かそれに近い形でセロを学んでいたということが考えられる。音楽自体に関するものであれば、1921年の十二月に、花巻校女において音楽を担当していた藤原嘉藤治と意気投合し、それ以来藤原から楽典について、賢治からはドイツ語を、交換教授するということが始まっていた。この時同時にレコードを聴き、賢治の音楽熱が高まったとされているのだが、どちらにしても農学校時代での賢治の音楽活動は、独学に近いものではあったろう。

 賢治の作曲活動、あるいは既存の楽曲に歌詞付けをするという活動は、少なくとも1922年まで遡ることができる。理由としてこの年の二月に「精神歌」を書いた賢治が、作曲をしたいが誰かいないかと、同僚の堀籠文之進に言ったという記事がある(『校本全集十四巻』:547)。このことにより、この頃にはまだ賢治が作曲活動は行っていなかったことがわかる。この時「精神歌」に曲をつけたのは川村悟郎であった。この川村はヴァイオリンが得意であったので、賢治がセロや様々な器楽に興味を持ち始めたのは、川村の影響によるのかもしれない。おそらく賢治の作曲であると思われる「太陽マヂックのうた」が、「イーハトーボ農学校の春」という実習風景を記した作品の中に残されている。「イーハトーボ農学校の春」は日付が書かれていないため、正確な年代は不明なのであるが、これより後に書かれたと思われる「イギリス海岸」に「(一九二三、八、九)(『新校本全集十巻』本文篇:59)」という日付がのこされており、さらにこの日付は現在までの研究で1922年の誤りであるとされているため、「イーハトーボ農学校の春」も1922年の成立であると考えられる(「太陽マヂックのうた」は四小節の繰り返し、とあまりに短いために、『校本全集六巻』には(歌曲として)収められていない)。

 ここに、『校本全集六巻』の校異での分類にしたがい、賢治の現存する二十一曲の歌曲を記す。

  1. 稗貫(花巻)農学校で、賢治が生徒たちとともに歌い、また学校行事等においても校歌に準ずる学生歌として歌われたもの……「精神歌」「黎明行進歌」「角礫行進歌」「応援歌」
  2. 同じく花巻農学校で、賢治の台本と演出により、生徒たちが上演した劇中のもの……「〔一時半なのにどうしたのだろう〕」「〔糧食はなし四月の寒さ〕」「〔饑餓陣営のたそがれの中〕」「バナナン大将の行進歌」(以上「饑餓陣営」)、「牧者の歌」「ポランの広場」(以上「ポランの広場 第二幕」)、「剣舞の歌」「牧歌」(以上「種山ヵ原の夜」)
  3. 童話中のもの……「星めぐりの歌」(「双子の星」)「ポラーノの広場の歌」(「ポラーノの広場」)「月夜のでんしんばしら」(「月夜のでんしんばしら」)
  4. その他の、合唱にふさわしいとみられるもの……「種山ヵ原」「耕母黄昏」
  5. その他の、独唱にふさわしいとみられるもの(賢治自身の個人的心象の表現という色彩の強いもの)……「イギリス海岸の歌」「火の島の歌」「大菩薩峠の歌」「〔北ぞらのちぢれ羊から〕」(『校本全集六巻』:988)

 これら二十一曲のうち、賢治の作詞に作曲されたものが「精神歌」、既存の曲に賢治が作詞したものが、「黎明行進歌」「角礫行進歌」「牧者の歌」「ポランの広場」「剣舞の歌」「牧歌」「ポラーノの広場の歌」「種山ヵ原」「耕母黄昏」「火の島の歌」「大菩薩峠の歌」賢治による作詞作曲が、「星めぐりの歌」「月夜のでんしんばしら」「イギリス海岸の歌」「〔北ぞらのちぢれ羊から〕」作曲者不明のものが、「〔饑餓陣営のたそがれの中〕」作曲者不明であるが賢治作曲の可能性のあるものが、「応援歌」「〔一時半なのにどうしたのだろう〕」「〔糧食はなし四月の寒さ〕」「バナナン大将の行進歌」である。「既存の曲に賢治が作詞したもの」のうち、原曲がわかっているものは、「黎明行進歌」——福岡大学からの寄贈歌「紫淡くたそがるゝ」とみられる、「角礫行進歌」——グノー「ファウスト」第四幕兵士の合唱、「牧者の歌」——Burns作詞、Spilman作曲「Afton Water」、「ポランの広場」——Shields作詞、Evans作曲「In the good old summer time」、「ポラーノの広場の歌」——キリスト教プロテスタント系の諸派が合同で編纂した「第四百四十八」『さんびか(賛美歌 第一編)』作曲者はGabriel、「種山ヵ原」——ドボルザーク 交響曲第九番「新世界より」第二楽章、「耕母黄昏」——「アルス西洋音楽講座」の「オルガン科」の譜例、「火の島の歌」——ウェーバー「オベロン」第二幕のフィナーレ「人魚達の歌」である。

(曲名の前後に付けられたキッコー〔〕は、その曲に曲名が付されていなかったことを示している。即ち、曲の第一行をもって曲名としているのである。)

第三章 宮澤賢治の作曲

はじめに

 前章の最終節でみたように、宮澤賢治作曲による歌曲は、「星めぐりの歌」「月夜のでんしんばしら」「イギリス海岸の歌」「北ぞらのちぢれ羊から」の四曲である。しかし佐藤泰平の『宮沢賢治の音楽』では、「剣舞の歌」「牧歌」「大菩薩峠の歌」も賢治の作曲に含めており、「太陽マヂックのうた」も含めた、計八曲とされている。なぜこの様な違いが生ずるのかをまず説明しなければならないだろう。

 それは、賢治の弟である清六により、1933年十月二十一日(賢治の一カ月後の命日である)に発行された、謄写印刷による小冊子『宮澤賢治全集抜萃 鏡をつるし』に起因している。『鏡をつるし』には先に述べた謄写印刷によるものと、それとは別に同年十一月二十三日に内容を変え、活版印刷によって発行された『鏡をつるし』の二種類が存在している。ここで問題となるのは前者であり、ここでは「剣舞の歌」「牧歌」「大菩薩峠の歌」の三曲が宮澤賢治作曲とされているのである。つまり『宮沢賢治の音楽』の著者である佐藤泰平がこの冊子を参考に新たに分類し直したのである。

 よってこの章では、一番最初に参照した『宮沢賢治の音楽』の分類を基本として論述する。しかし「太陽マヂックのうた」は割愛する。

宮澤賢治の作曲、分析

 宮澤賢治によって作曲された七曲は、「賢治自身によるオリジナル」と「郷土芸能の旋律をもとにしたもの」二種類に分けることができるものである。後者の「郷土芸能の旋律をもとにしたもの」とは、「剣舞の歌」「大菩薩峠の歌」及び「牧歌」である。このうちの「剣舞の歌」「大菩薩峠の歌」は、「この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律に賢治が詩をつけて、自己流に口ずさんだもの(『校本全集六巻』、原典は昭和四十二年度版全集第十二巻の「後記」)」であり、『宮沢賢治の音楽』によれば原曲は不明であり、佐藤泰平が調べた範囲では、賢治のふし全体と似ているものはなかったそうである(佐藤 1995:34)。残る「牧歌」は藤原嘉藤治によれば、「南部地方の農民の「さんさ踊」の系統に属するもの(『校本全集六巻』:1009)」であるらしい。

 では実際に分析の結果を記して行く。なお分析に使用した歌曲の楽譜は、巻末付録として添付する。使用楽譜は、『宮沢賢治の音楽』で最終的に使用されていたものである(佐藤泰平独自の採譜である場合と『校本全集六巻』の楽譜を使用している場合の二種類がある)。

 まず、「月夜のでんしんばしら」について考えてみたい。この曲は信号ラッパを模して作ってある。「でんしんばしらのぐんたい」という歌詞の一節が示すように、軍隊で使われるラッパのイメージで作られているわけである。即ちこの曲は、ここで行おうとしていることとはそれるために、これ以上は考察しない。

 「星めぐりの歌」はヘ長調の曲である。しかし下中音であるDに、半終止を示すのか、フェルマータが盛んにつけられていることに気づく。さらにブレスマークの直前の音は二度とも上音Gである。構成を見てみると、二拍目から始まり三小節目の一拍目で終わるという計二小節を一つの単位として、六つの単位で作られている。全体の構成としては、二単位で形作られるAとBによる、AABという形であるのだが、それぞれAはaa'、Bはbb' に分けられる。そのうちの a はGで終始し、a' 及び b はDで終始している。この様に半終止が属音で行われていないため、この曲には妙な違和感が漂っているのであるが、分析を行ってみると、一見スコットランドの音階で作られているように思えるこの曲が、DとGを核音に持つ民謡のテトラコルドと、AとDを核音に持つ民謡のテトラコルドを内包しているのではないかという可能性が見えてくる。特に a' は民謡的イメージを強く持っている。

 では他の曲ではどうか見てみることにする。「イギリス海岸の歌」にはC、G、A、D音が使用されている。終止には常にGが使用されており、そのため半終止感はあっても、完全終止したという感じは全くない(なにしろ常に同じ音型が繰り返されているだけである)。しかし先ほどの「星めぐりの歌」で見たように、この中に何らかのテトラコルドがあるのではないかという視点で見てみると、GとCを核音に持つ律のテトラコルドがあるのではないかという可能性がでてくる。さらに実際には出現していないF音を補足してやると、DとGを核音に持つ民謡のテトラコルドが成立し、そのことにより、Gを共通核音としてコンジャンクトされた音階ができる。

 「北ぞらのちぢれ羊」では、前半と後半に大きく分けることができる。歌詞でいえば最初の二行「北ぞら」から「照り返され」までと、後の二行「天の海」から「照り返され」までの二つである。このうち前のパートは、主にGとAが使用されており、残りはF#が一度、Fが二度、Eが一度でてきている。このことからこの前半においては、『わらべうたの研究』によるところの、「隣りあった3つの音だけでできているメロディはまん中の音で終わる(小泉 1969:362)」というパターンが成立している。もちろんこのパターンを成立させるために、一度しかでてこないEを重要でない音と見做しているわけである。ちなみに『校本全集六巻』に納められている楽譜では、最初のF#はFであった。このことから考えて、一度しかでてこないE音を、メロディを充足させるために使用された音階以外の音と見做してもよいであろう。では後半部分であるが、ここではEとAを核音に持つ民謡のテトラコルドが使用されているように思われる。そして経過的にDが一度使用されていることから、AとDを核音に持つ民謡のテトラコルドがディスジャンクトされていると考えることができる。そのため本来ならば上側のテトラコルドはペンタコルドになるはずなのだが、この曲ではむしろ下側のテトラコルドがペンタコルドになっているように見える。その理由として考えられるのは、下側のペンタコルドが完全ではない(Dが一度、しかも装飾的にしかでてこないため)ということが考えられる。さらにこの曲はGで終止している。これは作曲の際に前半をGで終わらせたため後半もGで終わらせる必要があると考えたのか、あるいは前半のFが最後の四小節間のAの繰り返しの中で思い出されたためなのか、不明ではあるが、可能性として考えることはできるだろう。

 以上で「賢治自身によるオリジナル」の分析を終え、以下に「郷土芸能の旋律をもとにしたもの」の分析を行う。

 広辞苑に「さんさ踊」ではないが、「さんさ時雨」という仙台地方の民謡に関する項目があった。江戸中期から唄われたとあるが、この音楽が「牧歌」の原曲となった「さんさ踊」と関係しているかどうかはわからない。ただ、広辞苑に付随していた文献資料(歌詞)から考えるに、どうも関係のないもののように思える。さて、「牧歌」についての分析であるが、『宮沢賢治の音楽』では次のように書かれていたので引用する。

 楽譜はヘ調で書かれ、四節までの歌詞に全部音符がつけてある。旋律はヘ調のド・レ・ミの三音だけ。それでいて、一種独特で怪しげな雰囲気を醸し出す不思議な曲である。ヘ長調といわずにヘ調と書く理由は、ヘ長調の主和音であるドミソのうちのドから始めるという意識が賢治にはなかったのではないか、この旋律はもともと調性がないのではないかと考えるからである。つまり、どの高さから歌い始めてもいいのではないだろうか。

 私が「牧歌」の旋律から連想するのは、屋台ラーメンのチャルメラのふしである。

 ここでいわれているのはまったくの誤りである。この曲は確かにF、G、Aの三音のみで作られており、Gの音で終止している。つまり以前「北ぞらのちぢれ羊」の分析時に用いた「隣りあった3つの音だけでできているメロディはまん中の音で終わる(小泉 1969:362)」というパターンが、この場合明らかに成立しているのである。即ちGは核音であり、西洋音楽の所産である調性がないのはあたりまえであり、どの高さから歌い始めてもいいというわけではなく、チャルメラを連想するのはあたりまえである。実際にチャルメラの例は『わらべうたの研究』でも使用されている(362頁)

 「大菩薩峠の歌」は、HとEを核音に持つ律のテトラコルドと、F#とHを核音に持つ民謡のテトラコルドがディスジャンクトされている形である。そのことから「隣りあった二つの音の場合、やはり上側の音が強い力をもつ」ため、下側のテトラコルドの上側の核音がEからF#に変化し、下側のテトラコルドがペンタコルドに変化している。

 「剣舞の歌」はEとAを核音に持つ民謡のテトラコルドと、AとDを核音に持つ民謡のテトラコルドがコンジャンクトされた形である。しかし、五小節目六小節目の二小節間にHがでてきており、Cが一度もでてきていないため、最初の八小節間はAとDを核音に持つ律のテトラコルドが形成されていると考えられる。つまりこの曲は八小節目と九小節目の間で、転テトラコルドを起こしていると考えられる。

宮澤賢治の作曲、結論

 以上の分析をもとにそれぞれ考察してみる。

 「イギリス海岸の歌」はまだ賢治の作曲がこなれていなかった時期に作られたものであるのか、不完全と言えるような音型が続いている。これは、信号ラッパの音型で作られたとした「月夜のでんしんばしら」に似た雰囲気(より不完全的であるが)を持っており、おそらくこの両者は同時期に作曲されたものであろう。しかし「イギリス海岸の歌」からは「月夜のでんしんばしら」にはない、より民謡的になろうとしている感じを受ける。

 そしてその感じは「北ぞらのちぢれ羊から」において、いよいよ顕著になる。「郷土芸能の旋律をもとにしたもの」として分類した三曲により近い雰囲気を持つこの曲は、西洋的では決してない。

 しかし「星めぐりの歌」ともなると、逆に西洋的になろうとしている動きが感じられる。なにしろ、洋楽に自ら詩をつけて歌曲を作った賢治であり、賢治所蔵のレコードが主に洋楽であったことからも、洋楽を指向しようとしていたと思われるのであるから、それは当然のことであっただろう。しかし、それでも「星めぐりの歌」の中には、民謡的要素が見える。二つの民謡のテトラコルドがディスジャンクトした形を持つこの曲が、A、そしてDに安定を求めようとしているのである。だがその安定を求めようとしている動きが、あくまで洋楽を指向している音楽の中にあるため、逆に不安定をもたらしている。そのことから、西洋の考えを受け、西洋的に生きようとしていた賢治が、それでもなお日本という、花巻という文化に支配され、そのことによりとまどっている姿を見いだすことができる。そしてそのことが童話の創作において、イーハトヴという架空の花巻を作り出させたのであり、賢治の独特の詩作をさせた原動力になっていたのかも知れぬと考える。そして、もし賢治の音楽の才能が彼の詩作や文作の才能にまで達していたならば、確かに賢治の音楽だと言い切れるものをいま聴くことができたかもしれない。だとすれば賢治の目指していた作曲は、西洋と花巻のちょうど中間にある、イーハトヴの音楽だったか。


「宮澤賢治の作曲」において使用された文献の表

小泉文夫編 1969『わらべうたの研究』研究編 〔わらべうたの研究〕刊行会 稲葉印刷所:東京

財団法人新村出記念財団 1993『広辞苑 第四版』CD-ROM版 岩波書店:東京

佐藤泰平 1995『宮沢賢治の音楽』筑摩書房:東京

畑山博 1988『教師 宮沢賢治のしごと』小学館:東京

萬田務 1986『孤高の詩人宮沢 賢治』進典社:東京

宮澤賢治 1983(1976)『校本宮澤賢治全集第六巻』筑摩書房:東京

宮澤賢治 1985(1975)『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』筑摩書房:東京

宮澤賢治 1985(1976)『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』筑摩書房:東京

宮澤賢治 1985(1977)『校本宮澤賢治全集第十四巻』筑摩書房:東京

宮澤賢治 1995『【新】校本宮澤賢治全集第十巻 童話[Ⅲ]』筑摩書房:東京

宮澤賢治 1995『【新】校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡』筑摩書房:東京

 このレポートを作成するに際し、筑摩書房より刊行されている、旧版『校本 宮澤賢治全集』及び『【新】校本宮澤賢治全集』を使用している。本来ならばその出典としてレポート中に、(宮澤 1985)のように記すべきなのであろうが、煩雑さを避け、かつ一瞥するだけでわかるよう、(『校本全集十四巻』)あるいは(『新校本全集十五巻』)というように記した。


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公開日:2000.08.03
最終更新日:2001.09.02
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