占いというものは、もとよりこれから起こる事態を予測したいという欲求からスタートするため、その対象となる時間的範囲は未来であるといってよいだろう。だがタロットの場合はどうなのか、タロットの示す未来とは一体どれほどの広がりを持つのだろうか。
タロットとは未来を知ろうとする試みであるため、大抵のスプレッド――カード配置――には未来を示す位置が用意されている。ただその未来というのは限定的に何時ということを明示しない、漠然とした未来、これから先のことであると告げているに過ぎない。占い師は未来の位置に置かれたカードを解釈し、将来的にどのような事態が予測されるかを相談者に話すのだが、その時相談者がもっとも知りたいのは、起こりうる事態についてもさることながら、それが起こるのは何時かという具体的な日時である。そのため相談者は占い師に対し、それは何時であるかと問うことになる。
さてここで疑問なのだが、タロットによる占いとは、果たして明示的な刻限を示しうるものなのであろうか。
タロットの読解に関するテキストをいくつか手にしてみると、カードから時期を読むための手法を紹介しているものが少なからずあることに気付くだろう。四つのスートを各季節に割り当て、数の象徴でより詳細な時期を読もういうのが一般的だが、カード――主に大アルカナに割り当てられた占星術的象徴をもとに読むもの、またそのデッキが独自に時期を定義しているものもあり、多種多様である。
一般的にいわれるスートと季節の対応は以下の通り。
スート | 季節 |
---|---|
杖 | 春 |
カップ | 夏 |
剣 | 秋 |
ペンタクルス | 冬 |
解釈者はこれら象徴に基づいて季節を読み解くことになるのであるが、しかし経験上それらは甚だしくあいまいで要領を得ず、あくまでも補助的なものでしかない。また時期を読み解く目的でカードを抜き出したのだとしても、それらカードは固有の象徴を持ち、それぞれに運命的暗示をささやいていることを忘れるわけにはいかない。
もし今、時期を見ようとして場に置いたカードが、占おうとするテーマにとって非常に有意であると認められるとき、それでも時期の判断にとどまるべきなのだろうか。それとも、つい今し方そのカードに課したばかりの役割を反故にして、より大きな目的に供するのだろうか――なにしろ時期の判断は補助的なものに過ぎないのだから!
カードが対象とする領域をその時々に違えようとすれば、こうした葛藤が往々に起こりうるのは当然である。カードの出た目によって右往左往する可能性をにらんで、私はこれを惰弱として退けようと決めた。故に私はカードに運命的象徴のみを期待し、時期に関してはタロットの仕事ではないと割り切っている。
ではタロットにおける未来とは、どの程度先の状況をいうと考えればよいだろうか。
私は次のように考えている。タロットにいう未来とは非常に近く、また漠然と遠い未来を指している。日常で意識される具体性を持たない先のことは、一体どれくらい先を指すのであるか。不明瞭であればそれだけ思い描かれる未来はより未来のものとなるだろう。対して明確な輪郭を持って実感できるものであれば、(例えばそれが期日のある出来事に対する予想でない限り)、数ヶ月、あるいはひとつないしふたつの季節をまたぐ程度、そして来年くらいがせいぜいではないか。
この不安定な、未来に対するイメージの揺れのうちに、タロットが扱う時間的範囲は含まれると考えるのが妥当である。
タロットによる占いは、元来漠然とした相談を扱うには向いていない。テーマがはっきりと意識されているほど有利であることは、今更いうまでもないだろう。相談者が持つ問題意識に照らし合わされて、カードは事態の向かおうとする傾向を明らかにする。大切なのは、ここで告げられるのはこれから起こる出来事ではなく、現在の出来事がどう動こうとしているかという、流れの向きと強さということである。すなわちタロットとは未来を知るのではなく、ただ現在の状況がはらむエネルギーを読もうとする試みであるといえる。タロットは経過する時間の範囲を特定せず、事物の変化しつつ展開しようするダイナミズムのみを扱う。
タロットは、漠然としたあいまいな未来に起こる未知の事件や、その具体的な時期を知るのに適した手段でない。タロットは既に提示された事態を対象に、精緻な分析を加え、ときに意識されなかった側面をあらわにしつつ、推移の可能性をうかがうものである。
ゆえに、明確なイメージをとりえない無主題の占いをタロットは不得手にしている。そのような場合には占星術が助けになるだろうし、時期の特定に関しても占星術の方が得意であろう。