私は気付いていた。それもずっと前から。
私の音は、曲をやっているとスケールをやっているときとでは、それはもう、はっきりと違うのだ。ピアノを弾いていたときから。サクソフォンを吹いていたときから。そして、ギターを弾いている今でも!
音が違う。なんでかというと、それはスケールで歌えていないからなんだな。歌うというのは、ちょっと楽器やってない人には説明しづらいのだけど、自分の中にある歌心を楽器にのせるとでもいったらいいだろうか。決して、カナダのピアニスト、グレン・グールドがやってるみたいに、実際に声だして歌うということではない。とにかく、歌え歌えといわれるのだが、この歌うということができているかどうかで、本当に音からなにから違ってくるのだから歌心というのは馬鹿にできない。
私は単調な練習が本当に好きで、それは例えば管楽器ならロングトーンだとかタンギングの練習、ギターならもうスケールとかアルペジオ(これは鍵盤だろうと管だろうと一緒)といったところだろうと思うのだが、とにかく好きなんだからしょうがない。しかし好きなはずのスケールであるというのに、曲をやっているときとは明らかに出音が違う。滑らかさも違う。いったいなにが違うのか。
歌えていないのだろう。
例えばロココ趣味の古典派はなんかに顕著なんだが、ころころと転がるようなパッセージ、ゼクエンツに、それはそれは美しい走句が――というか、音階の断片が用いられているのだけれども、こういうのをやっているときは、基礎練習と同じ音階とは思えないような音を出している(といっても、比較に過ぎないんだけど)。なんでかというと、歌えているからなんだろうけど、バッハの無伴奏チェロ組曲なんかでも、延々音階の上がり下がりをさせられるようなのがあるけれど、そういうのが典型例といったらいいのかなあ。とにかく全然違うのだよ。
私の目標というのは、機械的ではないスケールを弾くということで、それは私が私のスケールの味気なさに気付いているからなのだが、これはピアノをやっているときから、サクソフォンをやっているときからの課題で、ギターにまで持ち越したのだけれども、まだできない。ギターは悪いことに、ピアノや管楽器よりもスケールが難しい。だが、その難しさを置いたとしても、私はスケールでは歌えていない。
ちなみに、グールドがやってるみたいにうなりながら弾くと出音も変わるし、表現も違ってくる。コツは、ちゃんと歌おうと思わないこと。あくまでもギターに意識を置いたまま、声は気分のままに出すだけ。これだけのことで違いが出てくる。ただし、人前で演奏する場合には向かない。
コンサートだろうが録音だろうがかまわず歌って許されるというのは、それがグールドだとかカザルスだとかだからであって、私だったらきっと張り飛ばされる。だから私は、声を出さずに歌えるようにならんといけないのだよ。