グレン・グールドの音楽思想

20世紀後半における音楽受容の一局面

第二章 テクノロジーの浸透による音楽聴と聴衆の在り方の変質

 グールドがレコードに見いだした可能性は第一章で確認した演奏に関わるものだけではなかった。むしろグールドがレコードに期待したものとは聴取という行為、聴衆を、これまでの演奏される音楽を拝するという受動的な立場から、より積極的に音楽に関わり、音楽を創り出す主体と変化させ解き放とうというものであった。またそれと同時に音楽がレコードや放送などのメディアを通して環境となり得ることを指摘し、この環境において様式のごった煮、混淆が果たされることを彼は望んでいた。そしてこの解放された聴衆と音楽の混淆の中から新たな音楽の在り方――専門化される過程で分断されてしまった作曲と演奏と聴取、それらが再統合されることと、芸術が芸術という枠から解放され我々の生活そのものが芸術となりうる世界、が生まれると信じたのだ。

 この第二章では、グールドが求めた新しい音楽聴とそれがもたらすもの、そして実際にテクノロジーやメディアと結びついた音楽がもたらしたものについて言及する。

第一節 聴取者に与えられた新しい権利

 グールドはレコードとレコードによる聴体験が浸透することによって起こるだろう、ある変化について非常な期待を込めて述べている。それは「新しいかたちの聴き手」1と呼ばれる、かつてなかったより積極的に音楽解釈に関わり自己の好みを自分がこれから聴こうとする音楽に反映し得るような、創造的な存在の出現であった。グールドはこの創造的聴衆とでもいえる新しい聴衆が、テクノロジーやメディアを通しての二種類の音楽体験を経ることによって生まれるだろうと予言したのだ。その音楽体験のうち第一とは、テクノロジーによって音楽創造に積極的に関わることが可能になるということ、であり、第二のものはメディアというものを通して実現されるあらゆる音楽のスタイルの混淆に関するものであった。

 第一の、テクノロジーによって可能になる聴衆の音楽への積極的参加について先ず述べることにしよう。グールドによれば、レコードによる音楽聴取体験は、かつては得ることもかなわなかったサウンドの「明晰性、即時性」そして「近接感」を聴衆にもたらし、同時に音楽を聴くということを特別な出来事から日常的な体験に変化させた2。聴衆はレコードがもたらした非一回性の恩恵によって何度でも同じ演奏を矯めつ眇めつ聴けるようになり、その聴取の際にはコンサート体験で起こり得るような、満足に音が聴き取れないという不都合さから解放される。グールドはカーティス・デイヴィスとの対話において、「作曲家が書いた音を完全にすべて聴き取ること」は「蓄音機とレコードを通す以外の方法では不可能だと思う」と述べている3。このことはグールドが音楽の細部まで聴き取る必要性を感じていたこと、またそれを聴衆にも求めていたということを示すだろう。その同じ対話のさらに先では、グールドがステレオが音の分離に役立っていることとさらなるチャンネルの増加がより細密な聴取を可能にするだろうことを、デイヴィスの発言を通して述べている。つまりグールドは音楽を分析的に細かく腑分けして聴くことの可能性を、レコードとそのテクノロジーの進歩が担うだろうことに期待しているのだ。グールドは自分の論文「レコーディングの将来」で、「コンサートホールやオペラハウスの音響条件下では」不可能だがレコーディングとそのテクノロジーによって可能となるものとして、オーケストラの響きに埋もれることなく聞こえてくるオペラのアリアや繊細に奏される独奏の例が示すような、曲のどのような細部までをも明晰さをもって聴くことのできる環境を呈示し、各レコード会社はこぞってこの環境を用意していると述べる。そして、これこそが「レコーディング独自の慣習」であるというのだ4

 この「レコーディング独自の慣習」とはレコードで音楽を体験する「新しい聴き手」のために音楽の各部を増幅、調整し、レコードの上にコンサート体験とは異なる新しい聴取体験を築き上げることであった。しかしグールドによれば「新しい聴き手」はこの位置にはとどまっていない。彼らはレコード会社やまた放送局が調整し作り上げたお仕着せの音楽には満足せず、自らの望む音楽のかたちを求めようとするのだ。例えばそれは聴き手が音量のボリュームを調整することから始まり、高音や低音の低減、増幅、ひいては音質や音場の調整にまで関わるようになる。「ダイアルを回すことは、与えられた条件内での演奏解釈の一行為である」5、グールドによれば、テクノロジーによって聴衆は音楽を受け取るだけという受動的な立場から「音楽経験にこれまで以上に深く参加」することのできる、芸術への「参加者」、「協力者」としての立場を獲得したのだ6

 おそらくグールドがこの様な発想を抱くに到ったのは、自身の体験が元になっている。第一章冒頭で引用したグールドが「マイクロフォンと恋におちた」逸話、「創造的不誠実」を発見した時の状況を今一度思い返してみよう。「陰気で、ぶざま」な「低音の勝ったスタジオのピアノ」7が「低音を百サイクルあたりでカットし、高音を約五千サイクルまで増幅」することによって「魔法にかかったようにすっかり様変わり」8したという体験こそ、彼が一聴取者として音楽に関わり自らの望む音楽のかたちを得ることのできた、新しい聴取の第一歩であり、この経験から得たある種の感動、興奮を伝えたいという思いから、この新しい聴取法を推進しようとしたのだろう。

 彼はこの新しい聴取法をさらに発展させ、聴き手一人一人が編集に携わりその聴き手自身の解釈に基づいた音楽を作り上げるという、キットによる音楽を提唱した。このキットコンセプトこそはグールドのいう「新しい聴き手」の在り方を象徴するものであり、ラジカルともいえるこの聴取法は、参加、協力といいながらも音楽に対しては相変わらず受動的な関わりにすぎなかったダイアルによる解釈行為を、一気に能動的な解釈行為に変貌させる。

 このキットコンセプトによって得られるのは一体どういうものなのだろうか。グールドはジョン・マックルーアとの対話において、キットコンセプトが「今日の公衆の疎外と恐るべき絶縁状態に対する解答」であり、「公衆をスターターとして再創造のプロセスに参加させる唯一の方法」であるこのキットコンセプトによって公衆は「間接的に創造的プロセスに参加」する「アーティスト」になるという9

 グールドが推進するこのキットコンセプトも、グールド自身が、第一章第一節で述べたような、「創造的不誠実」――編集によって音楽を自身の解釈に従わせることの喜びを知ったときに考えつかれたものであろう。そしてこの音楽断片を編集作業によって繋ぎ合わせることによって一つの音楽解釈を生み出すという行為に、演奏や作曲から隔絶されている聴衆が創造者として音楽に関わる可能性を感じとった。グールドはおそらく編集作業に入ってテイクを吟味しテイクの継ぎ接ぎを指示しているとき、一聴取者としてあったのだろう。だからこそ自身の演奏をあそこまで切り刻み、再構成することを楽しめたのだともいえるかもしれない。その楽しみとは、もはやその時点では演奏することをやめている聴取者としての自分の思うままに、音楽を構成できるというまさに音楽を創っているという楽しみ、編集をするその過程で音楽ががらりと姿を変え、今までとは異なる姿を呈示し彼の望む完成へと近づいていく瞬間の興奮にほかならなかったのだろう。そしてその創造的行為を一般の聴衆にも解放しようとした。それは自身の喜び、楽しみを分け与えたい、伝えたいというためだけではない。それは彼の悲願、ルネサンス以後の音楽の専門、分業化によって生じた「作曲家と演奏家と聴き手の分離」、「音楽的階層制内部の階級構造」10を解消したいというそのためだったのだ。

 とまれ、このキットコンセプトにおいてもっとも大切なことは、聴衆がアーティストになるということであった。そしてそのための環境は、テクノロジーによって、整備され始めている。

 その環境とは聴衆にテープ編集装置が与えられるということではない。様々な音楽――それは多様な時代、様式の音楽であり、様々な解釈による演奏でもある――がレコーディングされ、聴衆がそれらを自由に参照し利用できるという環境、音楽のカタログ化が進んでいるというその状況をグールドが利用しようとしていただろうことを暗に示している。そのカタログ化とは、第一章第二節で述べた、演奏家に与えられた権利の裏返しであり、また聴衆はそのテクノロジーやレコードの与える恩恵により自らの好む音楽を作り上げることを可能にする、という構図が出来上がっていたのだ。そしてこれこそがこの節の冒頭に述べたテクノロジーにより聴衆が可能にした第二の音楽体験である。

 グールドはレコードによってあらゆる音楽の価値が平板化し序列化されること、つまりはカタログ化されるということを意識していた。そしてその「ポスト・ルネサンス音楽の常套句を網羅したカタログ」は「バックグラウンド・ミュージック」に「巧妙に隠されている」のだ。その「カタログは時代的特徴をうまい具合に無視して、さまざまの表現スタイル間の関係を認める相互参照用の目録ともなって」おり、この背景により「聴き手が提供する音楽的関係の成立を推進しようとする力が新たに前面に出」るとする。「バックグラウンド・ミュージックに見られるスタイルの幅は広」く、現代のシリアスな音楽で用いられているものよりも「はるかに多様な語法を引用して」おり、その結果「どんなに工夫を凝らした音楽鑑賞教室でも」不可能な「ポスト・ルネサンスの」音楽的「語彙と直接付き合う経験」を聴き手に提供しているのだ11

 そればかりではない。バックグラウンド・ミュージックの「スタジオでつくられるという事実と、スタイルを盛り合わせるというその音楽の本質上、日時の特定ができにくい」という性質、そして「これに携わっている人達は、ほとんどかならずというほど無名である」12という性質により、音楽外的な情報によりその音楽の価値を決定するという誤った評価の仕方(グールドはこれをファン・メーヘレン・シンドロームと呼ぶ)を回避することができるのだ13。そしてこの歴史的日時の不特定性と匿名性こそ、グールドがレコードというテクノロジーに求めるものであったのだ。

 音楽が匿名的になり様式を混淆させながら氾濫していく中で、グールドは聴き手が「徹底して自分本位の」やり方でこのメディアに参加し利用していくことを期待している。もはや聴き手はさまざまな情報に左右されることなくさまざまな音楽様式、音楽語彙を自らのものとする可能性を手にするに到り、ついには、かつては自己を反映させることもかなわず受動的に対するしかなかった音楽に自分の解釈を反映させることも可能にさせた。ここに「音楽的階層制内部の階級構造」は消え去ったのである。

 そしてこの様な状況が生じたならば、グールドは芸術が芸術として存在する意義を失うという:「存在しうるあらゆる世界のうちもっともすばらしい世界では、芸術はなくてならないという存在ではなくなるだろう」14。なぜなら大衆一人一人の生活がまさに芸術なのであり、ここに生活と芸術を別け隔てる必要がなくなるからなのだ:「聴衆が芸術家であり、その生活自体が芸術となる」15。そしてこの様な社会こそが、彼の望んだ、レコードとテクノロジーによってもたらされる、ユートピアとしての世界なのだ。

第二節 アドルノのグールドに対立的な見解と一致

 しかしグールドの説には問題が残されている。はたしてレコードとテクノロジーを介する聴取がかつてなかったほど浸透した現在、グールドの望んだ世界は現われてきているだろうか。

 グールドの生きた時代にもグールドの意見に懐疑的だった人間は多かった。そして、レコードやテクノロジーを介する聴取が聴衆に対して害になることを説き、おそらくはグールドの見解に対立するアドルノの言を以下にひくことにしよう。

 「ラジオやレコード類」諸々のテクノロジーの出現により、聴衆は「持続性や集中力や知識に欠け」た存在となり、「音楽にじっくり耳を傾けるということは、まずむり」になる、これがアドルノの見解の中心である16。またそれだけでなく、テクノロジーにより音楽の物神的性格が強調される結果、聴衆は極端に受動的にまた無批判的になるとさえアドルノはいう。そしてここでひいたことこそは、グールドのいうレコードやテクノロジーが聴衆にもたらしてくれるはずの恩恵に、真っ向から対立する見解なのである。

 アドルノが「鉄の紀律」として批判する演奏は、「完全無欠な演奏」が作品を「最初の音符とともにすでにできあがったものとして展開する」ために「デュナーミクがあらかじめお膳立てされ」「緊張の余地」をまったく失い、「音になる瞬間に音素材の抵抗が無残に排除されて」いることから「総合に行きつかない」性格のものである。そしてこれを「それ自体のレコード録音のようにひびく」と批判することにより、逆説的にレコード録音による音楽体験が「統一」を失った、ライブ演奏に劣るものにすぎないと表明している17。レコードにより「物神化の虜となり、文化財となった作品」は、「強調や反復などの手段によって聴衆の耳にたたき込まれる着想の塊となり変わり」、「分解された部分」だけが記憶価値を帯びるために、「全体の組織」と部分とは何ら関わりを持たない「解体された」非有機的なものとして下落させられる18

 音楽は物神化されることにより、その全体の統一を失い、またそれは聴衆から音楽の構造に耳を傾け、音楽の本質を聴くという行為を奪い去る。聴衆は「マス音楽」に顕著に見出される「注意散漫という」「知覚態度」、つまり「注意を集中して聞く能力というものを失ってしまっている」。この「注意散漫の状態」は、ベンヤミンの指摘する映画の鑑賞態度19と同様であるという示唆から、音楽における複製技術、伝播技術であるレコーディングやラジオ放送に際する聴衆の態度を指摘するにほかならない。そしてこの「注意散漫なきき方」のために「音楽の全体的把握」は「不可能」となってしまったのだ20

 注意散漫な聴衆はもはや「型通りのきき方しかできな」くなってしまった。彼らは「提供されたものの枠を越える能力を持ち合わせ」ないために、「物神化という退廃現象」に落ち込んでしまったのだ。彼らの反応は「すべてが前もって音楽産業の上皮と合致」したものであり21、例えば彼らが好む音楽とは「それが有名である」からであり、「それが好きだというのは、それを知っているということと大差ないのだ」22。そしてそのような反応を引き起こす根本原因が「きき方の退化」にほかならない。彼らは「現にあるのと違ったものをおぼろげに感じながら」も「そうした現状への警告を含んだ可能性」に気付こうとしない。彼らはメディアが提供するものを無批判に、無抵抗に受け取るのみで、別のさらに良いものを探すことなどしないのだ。「音楽大衆」となった彼らは「自分たちに押し売りされるものを、すすんで必要とし、要求する」までに堕落し23、「評価する姿勢というもの」すら「音楽商品」という「規格品」に「取り巻かれ」ることによって「空語と化し」、「選択自由の権利」は「事実上、空文化して」しまっている24

 この様な音楽大衆に支配される音楽シーンでは、前節で述べたグールドの希望などやすやすと打ち砕かれてしまう。

 アドルノはこの様な無批判的大衆をよく表す音楽としてバックグラウンド・ミュージックを批判する。バックグラウンド・ミュージックはまさに音楽の「表現の退化、伝達能力一般の不全」の申し子であり、聴衆が「唖化」している証拠にほかならない。「真に語るすべを知る者がなくな」ったために「傾聴するすべを知る者もいなくな」り、聴衆は「耳から入ってくるものに注意を払わな」くなる、そして「音楽の理解力そのもの」も同様に失われてしまっているのだ25

 集中して音楽を聴くすべを失ってしまった聴衆にとっては、音楽はもはや聴かれるためのものではなくなってしまった。さらに音楽は物神と化したことによりコレクション可能な即物性を帯び、聴衆はその物神の支配の元に屈伏してしまっている。ラジオ放送のリスナーは「彼によって発見されることを当て込んでいる工業製品」を発見することに躍起になり、そこでは「何を」「どんなふうに聞くか」ということは度外視されている。「ダンスや座興のために」即興をしてみせる「素敵な野郎ども」に到っては、実はその「即興と見えるものが」「機構によって要求されるものに即応してしたがう身振りに過ぎない」という性格によって、結果「物化された機構への服従の完璧さ」が明らかにされるだけなのだ26

 この様な「音楽的物化の機構」に飲み込まれてしまっている彼らの能動性とは、「強いられた消費者の受け身の状態」のなかで躍らされてしまっている「エセ能動性」に過ぎない27。音楽は「使用価値」を「交換価値」へ「転移」されたことにより「消費財」という「商品」となり、聴衆は「こうした転移の行なわれる社会状態にあって」今や「商品の神学的な気まぐれの前に平伏する消費者」となる。「演奏会」にではなくその「切符を買うことができた」ことに満足するような、「商品形態によって支配され」る、まさに「エセ能動」的な大衆となったのだ28

 「商品として聞かれる」ようになった音楽は、「販売上の配慮から」「聴衆の反応そのもの」を「はじめから蓄積された成功に向け」るため販売する側の「差し金」によって操作され、「スター」や「ベスト・セラー」作品といった「成功」を「請け合」う要素のみがクローズアップされる結果、「一般にみとめられた大家たちまでが」「質となんの関係もない淘汰を受け」、「プログラム」つまりは音楽のレパートリーは「縮小」する29

 これらの現象は「大衆の受け身」に起因するものである。そしてその大衆とは、「「個人」のための余地」が消え去ったところに生じた。「個人の要求」として「宣伝され」るものが結局は「始めから規格にはめ込まれている」という状況――「個人の解消」――のもとに生じたものなのだ30。「個人的なものは個人そのものの手から疾っくのむかしに奪い取られて」しまっており、それは「個人主義の下落し腐敗した」結果にほかならないのだ31

 以上に見たように、アドルノの見解は逐一グールドの展望に対し否定的に響き、まさに反グールド的である。しかし、アドルノとグールドの見解はそれほどにかけ離れたものなのであろうか。

 アドルノは音楽が物神化することによって「芸術作品が自らを超えて拘束力のある認識に転ずるキッカケが失われる」32ことを危惧した。これは逆にいえば、彼、アドルノが表面的なものや局部的刺激を超えたところにある、音楽的総合や音楽の集中的聴取を求めていたことを物語っている。しかしこれがアドルノの音楽に対する前提というならば、グールドもまた同じ前提に立っているのである。

 グールドは常に構造として音楽が捉えられることを求めていた。彼がロマン派の音楽を批判するのは「ロマン派のショーピースに見られるうわべの装飾」が「表面下の意味を期待することの愚」を明らかにするから、表面的に拘泥することにより音楽の真の意味が失われてしまうから、である33。また彼がスフォルツァンドを嫌うのはスフォルツァンドの「芝居がかった要素」が「対位法」という音楽の構造を破壊するからであり、また彼が「慣習通りに書かれている和音を、分散して弾」くのは、和音を分散することにより「対位法の精神を生かし」、「一本の線の事件と他の線の事件とをつないでいるかもしれないすべての関係を強調し」「情報の流れをもっと正確に制御したい」という、まさに音楽の構造を最重要視している結果なのである34。そして彼がバッハを称揚したのは、バッハが「構造を完璧なまでに浮き彫りにしようとする」「情熱」にしたがい「構造の理論上必然的に出てくる音」により構成された音楽を書く作曲家だったからであり、グールドは「こうした構造の解釈に対する主張を」示す必要を感じていた35。実際に彼は『ゴールドベルク変奏曲』の新録音では各変奏のテンポを変奏ごとの関係から導き出していた36

 これらからわかるように、グールドもまた、アドルノと同じく音楽の聴取に音楽全体の構造を捉えることを要求し、音楽の総合が行なわれることを求めていたのだ。

 しかしこの二人が同じ前提に立ちながらもこうも異なる結論に達したのは、なぜなのだろうか。これは、彼らのテクノロジーに関する見解、さらには個人というものに対する見解の相違によるものなのだ。つまり、グールドがテクノロジーを信頼しまたそのテクノロジーの利用者である個人を信頼したのに対し、アドルノはテクノロジー、そして個人を否定的に捉えていた、というこの差一点に由来するのだ。

 グールドとアドルノの個人というものに対する異なる評価。その評価は、アドルノにこそ明があった。それは現在の音楽状況を鑑みる結果、アドルノに軍配を上げざるを得ないということからも明らかだろう。

 グールドが求めた音楽的環境はここに整備された。複製技術により生産される芸術の時代はここに極まったのである。そしてこの時代においては、『聴衆の誕生』で渡辺裕が述べたように、カタログ的聴取、表層的聴取が横行し、良くも悪くも、それが現代の音楽状況を考える際には欠くべからざる要素となっている37

 ではここで章を分かち、現代に見出される音楽状況を概観、考察することとしよう。現代の音楽状況の現状とグールドの理想との乖離、そこにこそグールドが求めていた音楽の在り方に対する示唆、暗示が見出されることだろう。


第二章注釈

1 グレン・グールド「レコーディングの将来」野水瑞穂訳,ティム・ペイジ編 『グレン・グールド著作集2――パフォーマンスとメディア』(東京:みすず書房,1990年)所収【,162頁】。

2 同前,142頁。

3 グレン・グールド,カーティス・デイヴィス「平均律リスナー」木村博江訳,ジョン・マグリーヴィ編『グレン・グールド変奏曲』(東京:東京創元社,1986年)所収【,339-343頁】。

4 グールド「レコーディングの将来」,前掲,143-144頁。

5 同前,163頁。

6 同前,162頁。

7 グレン・グールド「音楽とテクノロジー」野水瑞穂訳,『グレン・グールド著作集2』所収【,172-173頁】。

8 Glenn Gould, "An Epistle to the Parisians: Music and Technology, Part I," Piano Quarterly 23, no. 88 (Winter 1974-5), p. 17. ジェフリー・ペイザント『グレン・グールド――なぜコンサートを開かないか』木村英二訳(東京:音楽之友社,1981年)より再引用【,235頁】。

9 グレン・グールド,ジョン・マックルーア「コンサート・ドロップアウト――演奏芸術における感覚の拡張と発展について」三浦淳史試訳,「グレン・グールド」,『WAVE』第16号,1987年,135頁。

10 グールド「レコーディングの将来」,前掲,168頁。

11 同前,166-168頁。

12 同前,168頁。

13 同前,151-156頁。

14 同前,170頁。

15 同前,171頁。

16 エドワード W. サイード『音楽のエラボレーション』大橋洋一訳(東京:みすず書房,1995年),24頁。

17 テーオドール W. アドルノ「音楽における物神的性格と聴衆の退化」三光長治,高辻和義訳『不協和音――管理社会における音楽』(東京:音楽之友社,1971年)所収【,36-37頁】。

18 同前,30-31頁。

19 ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」高木久雄,高原宏平訳,『複製技術時代の芸術』『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』(東京:晶文社,1970年)所収【,41-44頁】。に映画を鑑賞する大衆の散漫な姿勢についての記述がみられる。

20 アドルノ,前掲,44-45頁。

21 同前,38-39頁。

22 同前,12-13頁。

23 同前,38-43頁。

24 同前,12-14頁。

25 同前,13-14頁。

26 同前,51-54頁。

27 同前,50-51頁。

28 同前,26-29頁。

29 同前,22-24頁。

30 同前,20-22頁。

31 同前,54-55頁。

32 同前,17頁。

33 グレン・グールド「ロマン派のめずらしい人たちを掘り出すべきか、いや、いっときのはやりにすぎない」野水瑞穂訳,ティム・ペイジ編『グレン・グールド著作集1――バッハからブーレーズへ』(東京:みすず書房,1990年)所収【,119頁】。

34 グレン・グールド「モーツァルトとその周辺――グレン・グールド、ブルーノ・モンサンジョンと語る」野水瑞穂訳,『グレン・グールド著作集1』所収【,60-62頁】。

35 グレン・グールド,ティム・ペイジ「《ゴルトベルク変奏曲》新録音について」宮澤淳一訳,『グレン・グールド大研究』〈大研究〉シリーズ2(東京:春秋社,1991年)所収【,181-183頁】。

36 同前,170-174頁。

37 渡辺裕『聴衆の誕生』(東京:春秋社,1989年),112-149頁。


第三章 現代消費社会における音楽と聴取行為の弱体化

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公開日:2000.08.19
最終更新日:2001.09.02
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