イタリア語と出会ったのは母を通じてだった。母の、どういう交友関係があるのか、知りあいに大学でイタリア語を教える人がいたのだった。
その人は話に聞いているだけでも普通一般から離れ、ものすごく大きな人間で、波乱とともに生きてきたのだという印象をひしひしと与える。見た目は、どうひいき目に見たとしても大学の教員とは見えない、という人だった。
大学に入ってある夜、母に連れられてその人のうちにいった。小さなアパートに一人暮らしで、部屋のほとんどが立派な本に埋め尽くされていて、それだけでも圧倒されたものだった。先生は僕が来たことを喜んでくれて、ビールを振る舞ってくれたのだが、当時僕は未成年だった。もちろん飲んだのだけれど。
その夜のことは、断片が非常に美しい感傷とともに思い出される。シェイクスピアの訳、坪内逍遥訳が誤訳は山ほどあるが日本語として非常に美しいという話。先生が関わったイタリア語の辞書を編纂するとき、自分の領分を越えて他人の仕事までやってしまったこと。すべては先生の自分が納得するまで決して妥協しないという姿勢と、求めるものは遥か遠くの高みであることを、明らかに表していた。
そして、ダンテの神曲の註釈付の書籍。当時僕はまったくその作品の価値を知らなかったが、先生の話し、一頁のほとんどを註釈に埋め尽くされている「神曲」は、確かに我々の世界を超越した領域に存在するものに思えた。この大部の著作が韻文によって書かれており、それを読み解き味わうことは途方もない彼方を目指す旅のように思われた。
そして、先生はその彼岸を目指していたのだと、僕は思う。
イタリア語は一般的に非常に親しみやすく、陽気な言語として受け止められているように感じられる。確かにイタリアの国民性が、日本では非常に陽気なものとされているのは確かだろう。
しかし、僕にとってのイタリア語とは、先生が僕に垣間見せてくれた、ダンテの言葉として厳然と立ちふさがっている、まさにラテン語の直系として誇り高くある、孤高にして格式のある言葉だ。僕はイタリア語とともにその先生の生き方に魅せられ、翌年度イタリア語を履修することとなった。
イタリア語を通じて、彼らを追ってみたいと思ったのだ。
しかし、先生は不摂生がたたったのか、その数年後亡くなられてしまった。僕は空虚さを感じたものの、短く生きたにも関わらず、きっと内実は他の人生を上回っているに違いないと、それでこそ先生らしいと思った。
しかし、これで僕は先生に、あかんたれだった自分以上のものを見せることは出来なくなってしまった。
せめて、先生の、昔の学生は自分の学費を稼ぐため、働きながらでも大学に通ったものだという言葉を、たとえ二年間だけであっても実践できたことを先生へのはなむけとしたい。
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