生涯学習概論

「学習機会の解放――学習機会は均等に与えられているだろうか?」


 生涯学習に関わる学習の場は思いのほか多く用意されている。わたしの住む長岡京市を例にとって見ると、中央公民館、産業文化会館、婦人会館等等多くの施設を利用してのサークル活動が盛んであり、市の生涯学習課からは生涯学習情報紙「ふれあいネットワーク長岡京」や「生涯学習ガイド」が発行されている。図書館では不定期ではあるものの学習会や講演が開かれており、二つある市の高等学校では地域住民に図書館を解放している。営利団体では大きな所で私鉄駅前に梅花学園があり、水泳、剣道、ダンスなどのスポーツ、書道、茶道、華道などの教室が開かれ、駅近くの中国文化中心(センター)では中国語、太極拳、書道、水墨画等の講座が開かれている。また長岡京市内だけではなく京都市にまで目を向けてみると、京都シティカレッジという形での公開講座が多数開かれており、これらに英会話学校や通信教育なども加えると、自分の求めるテーマにそった学習の機会を得ることはそれほど難しくないように思える。

 また生涯学習という言葉が包摂する学習形態はかなりの広さをもっており、公民館で行われている学習会から英会話学校などが行う営利活動としての教育、通信講座など、また個人が独力で学習するという形態ももちろん生涯学習の一つであり、学校教育から離れて行われる学習がすなわち生涯学習であると簡単にいうことは決して出来ない。また学習されるテーマも多岐にわたり、いわゆる学問とされるものから自身の生活に役立つ技術の取得、また囲碁や将棋等の趣味の分野に含められるものもある。

 これら学習の形態も様々なら学習の内容も多様であることから、知らず生涯学習に携わっている学習者も多数いるのではないだろうか。

 しかし生涯学習に携わることの可能性が多いことをもって、生涯学習機会が広く解放されているということは早計であろう。

 学習形態の多様化は、学習者が自身のライフスタイルに適した学習方法を広く選択する機会を与えた。学習者は多くの選択肢のなかから自分の都合にあった学習の方法、場、費用を選択することが出来る。しかしその選択とはあくまでも自分の都合にあった場合にのみ有効であり、望む学習内容を学ぶ機会が必ず用意されているとは限らない。この問題は学習の際に学習の場への参加が必要となることに起因する。スポーツや習い事などで必然的に場への参加が必要となるものもあるが、学習の場所、時間に依存する必要のないはずの学習までが場への参加を求めることがあるのはいかなるものであろうか。

 例えば通信教育ではスクーリングという形での学習の場への拘束が生じる。しかもスクーリングでの学習内容が必ずしも出席しなければならないものであることもまた少ない。試験についても、一斉試験という形態をとるためであろうが、試験日、会場への時間、場所への拘束が生じる。単位認定、学習者の理解度を判定するために試験、レポートを課すのはある意味必要ではあろうが、これらのスクーリングや試験日に因る日時の拘束は、学習したいという意思に反し学習に割ける定期的な或いはまとまった時間がもてないという学習者の学習意欲を疎外する要因になることは用意に予想できる。

 恐らくこれは、学習というものは決められた学習の場に参加し決められた日時に一斉に試験を受け単位認定をされるものだという、「学校式教育」にみられる学習スタイルからの脱却がなされていないというそのためだろう。このことが本来自由な時間に自由に学習出来る機会を与えるはずの通信教育にさえ、自宅学習外の出席を必要とする講義を求めさせているのであろう。実習や演習系ではない講義などでこの様な出席を求める必要があるのかどうかを改めて考え直し、また実習、演習系科目でも学習者がその単位に見合う経験、技量などをもっている場合それによって単位認定を行うなどの選択が必要なのではないか。

 以上のように、学習者側からのより多くの譲歩を必要とするような制度上の問題により、すべての人に均等に与えられるべき学習機会は決して均等ではないというのが現状である。この問題の解決のためには、より学習者に便宜をはかることの出来る新しい教育のスタイル、学習の場が必要であり、そのためには学習形態の合理化が必要である。

 合理化のためには、現在急速に浸透しつつあるインターネットなど、マルチメディアを利用するのも重要な一つの選択となるだろう。インターネットを介しての学習は、アメリカなどの情報先進国では既に珍しいものではなくなっており、実際にアメリカの大学ではインターネットを用いての自宅学習のみで大学卒業資格を得ることが可能である。インターネットの利点は、文字テキストだけではなく画像、音声、動画などの様々な表現媒体を利用することが出来、電子メールを利用しての応答、応対、レポート提出、また電子会議などを利用しての即時的な講義、Web TVなどの技術を利用しての放送による講義など、学習者の都合に応じた自由な学習の機会を提供することが可能である。

 しかしこの様な学習形態をとったところで問題が解決する訳ではない。なぜなら現在通信教育で行われている学習形態を郵便という手段から電子的な手段に置き換えただけでは何の意味もなく、問題は現在の制度が持っている非合理的手段の是正のみにかかっているからである。

 より合理的に進めようとするならば、単位の相互互換や講義ひとつからでも履修できるようなシステムを視野にいれる必要も生じて来るであろう。学習者は様々に開講される講義、講座、科目を必要に応じて必要なだけ選択、受講し、単位を習得していく。そして資格を得るに足る単位を習得した時点で大学卒業資格等の認定期間に申請し資格を得る。もちろんこの様なスタイルでは修了年限や入学、卒業という概念は必要ではなくなり、学習者は好きなときに始め、好きなときに終えることが出来るようになることが望ましい。個人のライフスタイルが多様化し、一律の学習形態、期間、内容にしたがって学習できる学習者はこれからさらに少数になっていくと思われる。そのような社会に於ける学習機会を考えるならば、上記のような方式が望ましいのではないだろうか。

 だが上のように合理化を求め、その際にマルチメディアを活用するのならば、そこでもまた学習機会の格差が生じることを忘れてはならないだろう。

 例えばインターネットを利用するにはパソコンや通信回線を個人で用意する必要があるからである。パソコンは近年使いやすくなったとはいえ、それでもまだ使用、活用にはコンピュータというハードに対するある程度の知識が不可欠であり、また普及率も決して高いとはいえない。特にこの問題に関わる情報格差は、これからの生涯学習がより多く視野にいれていかなければならない高齢者において顕著となり得、学習のために学習のための手段を別に学ばなければならないという、本末転倒ともいえる状況が生じかねない。

 少なくともこの様な状況を改善するには、図書館や生涯学習センターなどがこの様な学習を保証する機材を揃え、学習者の機材利用をサポートする人材を含めた、新たな場を生み出すことも必要となるだろう。

 学習の障害となる要素を出来る限り減じさしめ、あらゆる人に学習の機会が同じく得られるよう留意するには、学習主体に加え、行政、学習機会の提供者すべてが一丸となり取り組まねばならない課題である。


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公開日:2000.08.23
最終更新日:2001.09.02
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