御先祖様万々歳を見た

こととねお試しBlog: 御先祖様万々歳!(初期形)

先日、人の日記にて『御先祖様万々歳』が触れられていて、そういえばDVD-BOXを持っていたっけ。久しぶりに見てみたいものだと、今日、引っ張り出して、通しで見てみました。その感想、けれどちょっとだけ。

いろいろと思うことはできるアニメだと思うのです。観念だとか概念だとか近代だとか物語だとか、けれどこれらはいずれにせよ言語によって語られる枠組みのこと。これら構造について考えることは避けられないことだとは思うのだけど、批評論評したいならともかく、私自身の問題としては正直どうでもいいことで、むしろそれらについて語ることは、私の思ったことに近づくためには逆効果だと思う。だから語らないし、あえて考えを進めないようにしている。これが前提。

このアニメは厄介で、4巻時点で終わりといわれれば終わりのようにも思えるし、さらには5巻時点で「物語」としての決着はついているわけで、だとしたら第6巻は駄目押しのようにしか思えない。そしてその駄目押しを受けてどうかといわれると、なんだか悲しくてやりきれない話だなと思うわけです。劇中で、自分の物語の主人公として生きることを望んでも、人は自分の物語の作者にはなれないという近代の苦悩というようなことが語られますが、まさしくそれを突きつけられているようなラストだと思う。人は極限状態におかれると、自分の今の現実が現実なのか夢なのかわからなくなってくると、そのようにいいますが、あの実際なにが現実で虚構で、舞台的演出で、舞台的演出が求める物語であるかわからない物語において、少なくともあの主人公においては、つまらない日常の反復を打破しようにも打破する勇気のない自分の前にあらわれた美少女と、そしてその美少女が永遠に失われたこと、それだけが現実であったのかなと。それも実感を伴わない現実だったのかなと。いうならば、変化に乏しくともある種安定していた現状を打ち壊せというそそのかしがあの娘であって、そしてぶち壊した後にはなにも残らなかった。ただ失ったという実感だけが残り、しかしなにを失ったかといえば、もとよりなにも得ていなかったのだから、かつての日常が失われたということだけが真実。そして、与えられたように思わされた甘美なるなにかが、結局は与えられてさえいなかったのだという、認めたくない現実がおまけとして付随しているのだと思います

認めたくないから、その手にさえしていなかったあぶくにしがみついて、残りの人生をふいにしてしまう。あの物語をこのように見る私は、人生において人生をふいにすることをことさら怖れるために、今を無為に足踏みしているのかも知れない。いつかこの足踏みの人生を打破してくれる黄色い花の訪れることを夢見ながら(そして私はそんな日が永劫来ないことを重々承知している)、今も自分の温く甘い繭にこもってるのかも知れません。

つらいね。この事実がつらいね。けど、面白いアニメであったことは疑いもなく、二十年近く前の作だというのに古ささえ感じさせない。むしろ今の状況を予測していたようなシーン、台詞も散見されて、まさに時代にとらわれない傑作だと思う。人にはお勧めしにくいけれど。

(初出:2007年9月9日)


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公開日:2008.02.26
最終更新日:2008.02.26
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