カウンセリング第1回

以前にいってましたけど、カウンセリングいってきました。本当なら先週のはずでしたが、諸事情で今週にずれ込んだのです。

さて、第1回目、最初は40項目の質問に答えるところから。これでもって、その人の傾向を見ようというもので、けれどエゴグラムなどとは違います。この質問は、パーソナリティテストではなく、私の障碍の傾向、障碍というとちょっと語弊があるかも知れないけど、アスペルガータイプであるとかLD、ADHDであるとか、そういうのの傾向を見るもののようです。結果は、一項目だけが突出。具体的にどの項目がなにを示すかはわかりませんでしたが、その突出したものはアスペルガーに関するポイントだったようで、13/20を獲得しました(他の項目が5とか6くらい)。あからさまには出ていないけれど、弱いアスペルガーっぽさがあるというところ。まあ、厳密にはかるものではないのでこの時点では曖昧です。

その後生育歴の聞き取りなどもろもろ。これが一時間くらいだけど、雑談も多かった、っていうか先生は音楽がお好きだようで、モーツァルトやベートーヴェン、バルトークもアスペだったんだよって論文? が出てるとかいって、モーツァルト、バルトークはそれっぽいと思ってたけど、ベートーヴェンは意外だったなあって。なので、私の以前研究対象としたグレン・グールドなんかは典型例ですよ、みたいな話して、なにやってんだろう。こんな感じ。けど、先生、話好きだな。クライアントの話も聞いてくれ。

こういう他愛のない話をするのは、カウンセリング手法であるということは理解しているんだけど(学生時分、心理学をいくつかとってますし、それにカウンセリングは子供の頃にやたらと受けた)、クライアントをリラックスさせ、ラポール(信頼関係)を築くためのテクニックであるとかそういうの。けど、知ってるというのはクライアントとしては微妙なんじゃないだろうかなあ。とか思って迷う。

その後、せっかくきてくれたんだから受けてってもらおう、先生の計らいで、いくつかの質問紙法による調査をやってきました(変な日本語だな)。質問に答えていくと、職業適性とかもろもろがわかるっていうんですが、問題が100問あって、それをありったけやってきたっぽい。全部で8種類。けど実質的に3種類(いや4種類だったかな)、学生向けとか社会人向けとか、ごちゃまぜにして渡されたもんだから、同じ問題が微妙に表現を変えて何度も出てくるんですね。全800問の問い掛けに答えるのは骨が折れました。一時間以上かかった。マークシート方式なんですが、ありゃ疲れますね。

結果は来週末には出るけれど、自分の都合で再来週に次回を予約。結果はその時にわかります。

初回はこんな感じ。まだなんもわかってません。というか、クライアントは社会復帰や生きづらさ、人とのつきあいづらさを治したいとかなんとかしたいと思ってるんじゃなくて、お前は自閉症スペクトラムの末端に位置しているのだ! ということをはっきり知りたいというだけだから、そのへんの要望をカウンセラーに伝えたいと思います。というか、本日伝えたかったのだけれど、人を前にすると要望を伝えられないんですよ。頼まれると引き受けるけど(ぐずぐずいいながらでも)、私が誰かになにかを頼むことってほとんどないでしょう? そうでもない?

あ、そうだ。先週のはずの予定が向こうの都合で今週に変更されたのは、もしかしたらアスペルガーのスクリーニングなんじゃないかと疑ったというのはいったほうがいいのかどうなのか。普通こういうことをいうと、被害妄想というかその類いととられるから思っても口にしないのですが、けれどクライアントの立場ではいっても問題ないと思う。

あ、そうだ、質問紙法の質問で困ったことがあった。よく「友人が」どうこうって出てくるんですよね。それに答えるたびに、しかし本当に私に「友人」といえる人間はいるのかと困るのです。私を友人と思っている人、ごめんなさい。けど私には友人という関係が実はよくわからない。だから私は一方的に誰かのことを「友人」というけれど、本当なら「知人」と表現したいと思っている。「知人」でないと収まりが悪いのだけど、その人が私を友人と勘定していてくれた場合にまずいから、「友人」というようにしている。けど「友人」って本当になんなのだろう。こういう曖昧な関係性をつかみにくいのが私という人間なのですが、もし私がアスペルガーであるのなら、この傾向にはっきりと説明がつきます。そうであれば、私は次に進むことができる。そんなことを思っているのです。

(初出:2007年10月17日)

コメントに対する返事(2007年10月17日)

> こういう考え方[友人に関しての考え方]がアスペルガーに関係あるんですか?

そういう考え方がアスペルガーに関係するわけではありません。けれど、アスペルガー(とうか自閉症)の特徴のひとつに、曖昧な表現がわからないというものがありまして、例えば、廊下をきれいに拭いといて、といわれた場合、どのくらいやれば「きれい」になるのかがわからない。だから、延々拭き続けて、廊下とは思えない輝きを生み出したりするということがあるんです。この傾向は私にもあります。なにかについて調べといてといわれた場合、どこまで調べたらよいのかがわからないから、それは具体的にこれくらいのデータが必要ということですか? これくらいの項目でこれくらいの精度? と聞くわけです。それについて、それで大丈夫とか、もう少し必要、具体的にこれくらいというのが明示されたらその通りにできますが、そうではなく、常識で考えたらわかるだろ、みたいにいわれたら立ち往生します。私にはその常識の求める範囲がわからないからです。もちろん今ではそういうことも少なくなりました(年をとるということは知恵がつくということです)。ですが、圧倒的なデータ量、サンプルを前に、これを全部処理すべきかと茫然とすることがあります。迷った揚げ句、こんだけ出ましたけど、全部必要ですか? と聞きにいくということをしたことがあります。そういった具合がわからんのです。なんとか処理できる範囲であれば、低精度、中精度、高精度といったように、精度違いを用意して持っていくというようなこともします。

友人の例は、他人の考えはわからんからどうなんかはいえないけれど、私にとっては閾値の問題の典型例なんです。どこがどうなったら友人かわからん。思春期の悩みやなんかとは違うし、哲学的に「友人とは?」と考えたいわけではない。ただその閾値がわからんという、そういう話です。誰かを友人と思う、その閾値は人によって違うとかいう話ではなく(文化の問題)、私がその曖昧な量を量れない、はかれたとしても評価できないという話なのです。

うまく伝えられてるかどうかわからんなあ。弱った。それは、誰でもそうなんじゃないですかといわれそうですね。そういわれたら、そうです。けれど、アスペルガーを含む自閉症というのは、健常者と隔絶した域にあるのではなく、なだらかに変化する、曖昧な境界の中に発生するものなのです。だからアスペルガーは特別ではありません。健常と地続きで隣り合い、一部は混ざり合っているから、アスペルガーの悩みが、健常者の悩みと著しく異なるというわけではないのです。

コメントに対する返事(2007年10月17日)

> 自分の思考が普通だというのが思い込みなんでしょうか?(^-^;

普通の人間は、自分の思考を普通と思うものだと思います。それは周囲の考えている普通、常識、標準を察することができるからです。対して私は、そうした普通、常識、標準というのがよくわかりません。私は自分を普通と思いたかった時期があったけれど、どうも「世間の普通」は私を含まないのです。おかしいと面と向かっては言われないけれど、けれど次の記事に書いたように、あなたは私たちとは違うカテゴリにあるのだと、これまでに何度となく、いろいろな表現でいわれてきて、今では私は普通であること、標準であることを放棄しています。

私は、普通というものは、普通と思っている人の中に漠然とある「自分を中心とする概念」に過ぎないと考えています。もちろん、その概念は一人一人異なっているから、「自分の思考が普通だというのが思い込みなんでしょうか?」と問われたら、「普通とは思い込みによって生じる概念」なんだから、それはそうでしょうと答える他ありません。けれど一般にはそうは考えられてないでしょう。

アスペルガーであるかどうかをスクリーニングするテストがあります。

http://www.the-fortuneteller.com/asperger/aq-j.html

もちろんこれで即断できるわけではないのですが、けれど大ざっぱな傾向を捉えられるんだそうです。そして私は過去に何度かこれをやっていますが、意図や偏りをなくすよう、できるだけ素直に、まっさらな気持ちで取り組んでいますが、常に閾値を超えています。

もちろん、これで自分をアスペルガーであると思ったわけではないです。ただ、これをやるまでは自分で自分をアスペルガーであると疑ったことは*一度もありませんでした*。アスペルガーである人と交流する機会を持ったときに、興味を持ってアスペルガー及びサヴァンについていろいろ教えてもらったことがあったのですが、それでも自分をアスペルガーであるとはまったく思いませんでした。

けれど、自分の過去をいろいろ思い出して、その特徴と照らし合わせてみると、どうもそれくさい。濃厚ではないけれど、片足どころか両足踏み込んでそうだと、そんな風に思う。けれど自分は専門家ではないから、その判断が下せない。けれどそうした曖昧な状況は嫌だからと、専門家にかかっているというのが今回の話でした。

コメントに対する返事(2007年10月18日)

まあ、アスペルガーも軽度なら個性といってもおかしかないくらい「普通」なので(なにしろ1%程度の発現率だそうですから)、いわゆる空気読めないとか、おたくくさいとか、それくらいなので、パーソナリティの一種と捉えてもいいんじゃないかなと思います。ただ、アスペルガーも高度になると、社会生活において不利な状況(例えば就職など)に追い込まれている人たちもあるといいますから、そういう意味では障碍と捉えて、支援ないしをするほうがいいんじゃないかとか、考えようはいろいろあるかと思います。

> 閾値内でした。

やっぱり閾値に達しない人もあるんですね。

付記

 記事に寄せられたコメントのうち、自分の書いたもののみを転載しました。文中に現れる名前(ハンドル)はイニシャルに置き換えています。


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公開日:2008.03.12
最終更新日:2008.03.12
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