私はそれを撮れない

 フィルムカメラの最後の牙城と思っていたキヤノンが銀塩写真事業の展開が困難であると本音を漏らして、フィルムに愛着を感じる私にはこれは実にショックな話だ。しかし銀塩が低迷しているからといって写真が下火であるかといえばそうではなく、デジタルカメラは百花繚乱である。アマチュアが五百万六百万といった高画素機を普通に使う時代であり、そして携帯電話。携帯のカメラも馬鹿にはできない。電話の普及率を考えれば、カメラが世にあまねく行き渡っていることがわかる。今や誰もがカメラを常に持ち歩いて、これは空前絶後の事態といっていいだろうよ。

 カメラを手にした我々は、興味、好奇心に導かれるままにシャッターを切るのだが、こうした行為は個々人の表現の範囲を広げる可能性を持つ反面、多少厄介な問題もはらんでいる。我々は、いつ、どこで、誰に撮影されるかわからない。我々が撮る写真には、特に街中の写真であれば、誰かしら入り込むのは自然であって、そしてそれが知人であるとは限らない。我々は人に興味を持つがゆえに、人の写り込んだ写真に味を見いだし、だから撮影時に人影を期待することもしばしばで、だが我々は人が自分の肖像をコントロールしたいという欲求を持つようになってしまっていることもわかっているから、その板挟みにやきもきする。人は撮りたい、しかしその写真の公開には二の足を踏むという現実。写真は個人的な興味を発想の原点とするが、できあがったものは少なからずパブリックな性質も持っているから、公開したいという気持ちはとめられない。だがトラブルの種を避けたいと思うのも心情だ。

 海外の写真を見れば、皆おおらかで私はうらやましく思ってしまう。ネットを通じ世界に公開される写真に、普通の市民が写っている。生活や人となりをともなって、生き生きとしている。ところが日本ではそうした写真は難しくなってしまった。しかし人間の顔というのはどうしたものであったか。プライベートでありながらパブリックでもある、それが人の顔の本質ではなかったか。

 だが、きっと私は人を撮ることはしない。公開できない写真をストックしたくはないからだ。だが本心は人を撮りたい。だが画面に映り込むすべての顔に公開の許可を取り付けるのは至難であり、そもそも不可能だ。だから私は人を撮ることはしない。だが本心では撮りたい。人こそが人の興味の行き着く先であるのに、私はそれを撮れない。


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公開日:2006.05.25
最終更新日:2006.05.25
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