失うために手に入れる

 私は時に思うのだが、ものがたくさんあるということは本当に仕合せなことなのだろうか。いや、ないよりも仕合せだろう。しかし、ものが少しある状態と、ものが有り余るほどにある状態を比べてみたらどうであろうか。仕合せ度を計ることができたとしたら、このふたつの状態、意外に差は出ないのではないかと思っている。

 こんなことを考えたのは、米アマゾンのフリーダウンロードに打ちのめされたせいだ。私のコレクションに、数百から数千の楽曲が流れ込むことを考えてみて、それはきっと素晴らしいことであろうが、はたして本当にそうか。私はそれだけの量を、一曲一曲つぶさに聴くことができるか。

 無理だ。音楽を聴くには時間が必要で、一千曲を聴くための時間を充分に確保することはできない。音楽はハードディスクの肥やしになって、いつ聴かれるかわからないまま死蔵されて、私にはこの状況が仕合せだとは思われない。振り返れば、安価なCDを片っ端から買って、すべてを聴けないままに死蔵していたころは不幸だったのかも知れない。しかし、それでもそれらはいつか聴こうとして選んで買ったものだ。フリーダウンロードは違う。根こそぎ、無料だからと山のように音楽を手に入れて、だがそれを聴くだけの心構えはない。集めるだけ。そこに愛はあるのか。私は、こうした行為にふけることを浅ましいと思ったのだ。

 私は今CDの到着を心待ちにしていて、イギリスの伝承歌のアルバムを買ったのだが、同じ曲を違う人が歌っている。違うアレンジ、違った解釈が期待される。あるいは歌詞やメロディにも相違があるかも知れない。今から楽しみで、こうした楽しみは残念ながらフリーダウンロードには見いだせなかった。

 ものが少なかった時代、その少ないものに注がれた愛はより深かったように思う。少ないものにたっぷりの愛、対して多くのものに少ない愛。掛け合わせてみれば、案外総量は変わらなさそうじゃないか。


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公開日:2005.11.01
最終更新日:2005.11.01
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