リソースの配分

 2003年ごろの文章を読み返して、自分のピークはここらあたりだったなと実感してしまった。分量もさることながら、内容が今とは全然違っている。思ったことにせよ、いいたいことにせよ、ひとつの文章中にしっかりと込められていると感じられる。たくさんのことを、きちんと整理して、わかりやすくまとめようという意識が見える。対して今はどうだ。いいたいことなどまったくないかのように希薄だ。ほんのわずかのありきたりを、だらだらと薄くのばして、こんなのはまったくの惰性に過ぎない。自分はいったいなにをしているのかと、――なにをしたいと思っているのかと、自問しないではいられなかった。

 こういうことをいうと言い訳になるかも知れない。人間の持っているリソースには限りがある。リソースとは、例えば、体力で、気力で、時間だ。2003年と今との一番大きな違いは、リソースの使い方にある。以前には、私は自分のリソースの許す限りすべてをこととねに注いでいた。本を読み、映画を見、音楽を聴くといったインプットがあり、それら入力に呼び起こされたもろもろを文章に換えて公開していた。だが、今私はこのような状況にない。

 今、私のリソースの大半はギターに費やされている。インプットは主にギター中心に絞られ、そのしわ寄せはまず語学に向かった。私は今、語学をしていない。過去の遺産で細々と食いつなぐみたいにして、新たななにかを注ごうとはしていない。語学のリソースを食いつぶして、次は映画だろう。映画を見る時間は練習時間にあてられた。一事が万事この調子で、体力気力をギターに取られれば、いずれ本を読むことも少なくなる。本がギターに追いやられれば、次はなんであろうか。漫画だろうか、サイトだろうか。

 おそらく最後に残るのは音楽とギターだろう。少なくともサイトではない。そのサイトにしても今やもうジリ貧、いわば残りかすだ。もはや先は見えたかも知れない。


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公開日:2005.06.25
最終更新日:2005.06.25
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