電車待ちのホーム。向こうにとまった特急の車窓からこっちを見て、にやにやしてるやつらがいて、これが近くだったら殴ってやるところだと思っていたら、私の隣のご夫人も同じように思っていらしたらしく、失礼やねえと随分憤慨のご様子だ。どついたりたいねえ、と関西ではご夫人でもこういう言葉が普通に出たりする。楽しくも気さくな土地柄なのだ。
これがきっかけになって、大阪までの車内、ご夫人と話をしながらの三十分だった。今の若い人はようわからへん。私の若い頃は戦争で――、少女時代は大阪の空襲に翻弄されたのだそう。大阪はすっかり焼けて、建物は爆撃でぺしゃんこになって、屋根瓦がオレンジ色に変わったという。遮蔽物のなくなった焼けっ原には阪急デパートと警察の建物だけがはるかに見えて、道のあちこちには死んだ人が横たわっているのも見えた。動員された工場が爆撃を受けたとき、休みだった学生は助かったが、社員は皆死んでしまった。我がちに防火用水に頭から飛び込むようにして死んでいた。
さぞや熱かったんでしょうね。ご夫人は二度三度うなずいて、あの頃は本当にもういつ死んでもかまわないというようなそんな気持ちでいた。食べ物もなく、米を突いて出た糠も食べた。非常用に煎った豆やなんかを持ち歩いて、防空壕の中で食べた。
不発の焼夷弾の中からはスフがずるずると出てきて、それを使って鼻緒を作った。庭に、いつかお嫁に行く日にと植えられていた桐が半分焼けて、その残りで下駄を三足作った。飢えたや死んだといった話の中に、少しでもそういう新しい物事が生まれたという話があって、わずかでも気持ちは明るくなったが、しかし私は真実を見たわけではない。ご夫人の言葉は重かったが、実際にはその比較にならないほどの重圧があったはずだ。私はその重圧は知らない。同じ戦時を過ごしても、空襲を体験しなかった京都の人にはわかってもらえなかったとの言葉もつらかった。