難解平易の是非

 文章は難解であるべきか平易であるべきか。このような問いがあれば、易しいほうがいいに決まっている、そういう答えが多勢をしめることであろう。私もそう思う。難解極まるものを読まされるのは苦痛に違いない。だが自ら書こうという段になると、ふと迷いが生じることがある。それで困っている。

 どうしても使いたい言葉というものがありはしないだろうか。自分の思うところを記すに適した一言を見つけたと思うことがある。どうにも言い表せないと思っていたものが、その言葉ひとつでしっくりといく。それが世間一般に馴染みあるものならなんら問題ないのであって、ためらうことなく使えばいい。だがそれが古めかしい言い回しであったらあるいは日頃耳慣れない文句であったら、それをあえて使うべきかどうかで足踏みしてしまう。言い換えられるものなら言い換えればいいのである。それを是としない自分がいるから、進めなくなるのである。

 仮にその言葉を使ったらどうだろうか。通じる人はいるだろう。だが読み飛ばす人も出るに違いない。誤解される恐れもある。それを嫌うのであれば素直に言い換えるべきである。字句を改める。表現は簡単にする。結果語句は平易平易へと流れ、語彙は貧困に、どこかで聞いたことのある文言が幅を利かせてくる。だがこれが自分の求めた文章であろうか疑問が生じる。こうして改めようとするからして、いよいよ流通しなくなるのじゃないか。なら自分が率先して使ってやらなければ。いらぬ使命感が厄介である。

 実際問題として本当に言い換えの利かない表現などはありはしない。書いた当人が思うほど、人はその一言に頓着などしはしない。だからこれはこだわりである。譲るか譲らないか、意地だけの問題である。読者をよく想定してさえいれば起こらない問題であるが、文章は書き手が最初の読者である。その最初の読者が納得しないのである。だから私の文章は、どこか古くさいのである。


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公開日:2003.01.23
最終更新日:2003.01.23
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