余は如何にしてカード占師となりし乎

 人は誰でも、なにか事に当たろうとするとき、漠然ながらも展開を予測し、その展望にそって計画を立てるものである。もちろん私も同じであった。だが人は普通、あまりに突飛な出来事の起こることを予想はしない。ありえない事態に対策しても仕方がないのだから。なのに不測の事態は往々にして起こるのだからやりきれない。

 先の私の事例においては、愛した女の難病であったこと、そして人生の敵ともいえる女の介入である。どちらも当初の予測には現れなかったものであり、特に後者は、いくら事実は小説より奇なりといえど、起こりようはずのない陳腐な筋書きであった。

 次の手をどう打つか。それが問題であるというのに、現実が予測をはるかに上回っているという有様。そもそもの前提は覆され、計画の瓦解もなんら不思議でない。用意はあたら無駄となるわけで、結局予測や計画などというものは、人生においてなんら有効性を持たぬのである。

 人の思惑から外れる事態になど、どう対処できようか。その時を迎えて慌てふためくことはできても、事前に策を弄するなど不可能だ。だがその不可能に抗いたかった。人知の届かぬことに思いを馳せるには、人知を超える手段に訴えるよりない。そう考えて私は占いを始めるに至った。手は、子どもの時分より興味のあったタロットと初めから決まっていた。先を読み、先の先を取りたかった。

 カードを購入し、解説の類いを山と読んだ。よいといわれる手本は片っ端から試し、知人友人先輩後輩をつかまえては占った。まわりに実占者はなくすべては独学である。知らない人まで占って、だが自分の決断を占いに託すのは嫌だった。

 好いた女を取るか、取ればこの先きっとつきまとってくるあの女がためにあきらめるか。三ヶ月の間迷い続けた結論は、好いた女を切るであった。苦渋の判断であったが、この恋について占ったことは一度もなく、以来残された技術によって他人ばかり占っている。

終り


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公開日:2003.01.07
最終更新日:2003.01.07
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