貧乏性

 まれによい食事をする機会があるのだが、それがどうもあわない。よい食事とはつまり贅沢な食べ物で、雲丹いくらや霜降りの牛肉など。それがどうもあわない。嫌いというわけではない、まったく口にもできないというわけでもない。むしろ上等の海鮮のもの、蟹や海老にせよ、はたまた獣肉にせよ、食卓に上れば喜んで食べている。では一体なにがあわないというのか、――たくさん食べられないのである。

 たくさんを食べられない理由というのは分かっている。贅沢もの、それは一概に脂質に富んだものであり、その脂分が、日頃そういったものを食べ付けない自分には強く働いてしまうのだ。食べはじめこそおいしいと思いこそすれ、一口二口と食べていけば、胃に重くのしかかり、もう結構ということに。その頃にはもう、脂そのもののむっとくる臭気が鼻について、それでいて味わい自体には欠けるそのものの内実の伴わなさに、嫌気ばかりが立ってしまうのである。トロよりも赤身がいいと思う、牛肉においても然り。子供の時分からこの傾向は変わっておらず、往時はなにげなく手を付けた肉製品に蕁麻疹を発した。それがなくなっただけ、今はむしろましといえる。ただそれは、程度の差でしかないのではなかろうか。食べにくいという点においては、昔も今もなにも変わっておらず、脂質が味を左右すると理解しても、脂のてかりはえずくろしい。

 だから目下自分にとってのよい食事といえば、うどんや餅、粥というあっさりとして食べやすいものになってしまう。ある程度年のいった自分がもらい物の餅に驚喜し、うどんに執心するというのもおかしいが、それもできるだけ具や味付けの薄く、おおもとの味、食感が直接的なものを好むとなれば、よっぽど好み、体質がつつましく、貧乏にできあがってしまっているのであろう。秋の味覚といえば秋刀魚である。夏には枝豆がうまい。なら春には何であろうか。冬、正月といえばなんであろうか。


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公開日:2002.12.22
最終更新日:2002.12.22
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