黒い花、無風流なる

 そこには一体どんな秘密が隠されているというのだろう。日本においては国家を揚げて隠ぺいされているそれ。私にはそれがそうまでして秘されなければならないほどのものとは思えないのだ。多かれ少なかれ私たちは、そのどちらか一方を持っている。秘密でもなんでもないそれを見るにつけ、これのどこにそれほど民心を騒がせる大事があるかと疑問になる。実際はじめて自分の持たぬほうのそれを目の当たりに見た時などは、ああやっぱりこんなものかという軽い失望を隠せなかった。これまでの価値が転倒するようなものはなく、つまらない現実しか見えなかった。そもそもそれ単独で人になにかを与えるほどの強さも意味も持ちあわせていないものだ。ならばなぜ国家からしてがこれを取り締まらねばならないのか。そこがどうにも解せないのである。

 昔し『王妃マルゴ』という映画を見ていた時、スカートがひるがえるのに合わせて画面にぼかしが入った。ほんの一瞬にも満たない程度のものだが、映画に没入する意識を引き上げるには充分だった。またアメリカ産の映画でも、殺人者に追われる男のはだけたガウンの前にぼかしが入れられていた。この時も、映画の時間に無理矢理割って入る現実の無粋さに一気に鼻白んだ。

 この現象は一体なんのためのものなのか。隠されているものはつまらない現実に過ぎない、作品にとっては枝葉にさえならぬ些事である。この毒にも薬にもならない小事を針小棒大に取り扱う料簡の小ささが、物語の流れを阻害し構図を台無しにしてしまう。重要なものは手法なのだとすれば、現実ごときに邪魔を入れられる謂れはない。にもかかわらず、自然に具わるものを鵜の目鷹の目で検閲するナンセンス。追うべきものから逸らされた意識が再び焦点を結ぶのにかかった時間の分だけ、恨みは積み重なっている。あるものはあるがままに。どうぞ現実には分をわきまえてもらって、我々の鑑賞の邪魔をしないでもらいたい。


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公開日:2002.08.22
最終更新日:2002.08.22
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