その子の名前は依子だったかもしれない

 ある男があった。その男はある女学校の教師であったが、日頃の不品行が原因して学校をやめさせられることになった。だが、こともあろうにその男は、自らを省みることもなく逆恨みに、校内で撮った写真をもって学校を強迫しようと一本のフィルムを写真屋に持ち込んだ。フィルムの半分には、誰もいないホールの二階客席にいる女生徒がふたり写され、途中からは、そのうちのひとりが一階席にまで転げ落ちる様の連続写真となっていた。少女が、写真の一枚一枚に刻々と位置を変えながら、それを最後に受け止めていたのは件の男であった。これでどう強迫しようというのだろう。夢というのはいたって理不尽である。

 わたしがその少女と出会ったのは、緊急に運ばれた病院から恢復して帰ろうとしたところだったらしい。奇跡的に大事もなく、小柄で寡黙な少女は、大きな目を上目にどことなく悲しそうで、わたしは思わず話しかけたのだろう。最近取った免許、車で送ってゆくことになった。だが、ふたりで一緒の歩調で歩いていくのが、きっとずっとよかった。中学一年生だという。なぜあんな事件になったかは、自分でもわからない。長く長く歩いて、途中公民館のロビーで休んで、わたしたちはとても仲よくなった。だが名前を聞きそびれてしまった。

 日が暮れて、街に燈が点々とつくまで、わたしたちは歩き通しだった。静かな住宅街にさしかかって、ここが目的地である、直に別れねばならないということは分かっていた。冬の日に、制服の紺色の上着だけでは寒かったろう。華奢で薄い手は冷たかった。その手を引いて歩いて、家の近くでわたしたちはお別れをした。

 それから数日か、覚えている制服を頼りにその子を探して学校の周りを歩いているのだが、出会えそうな予感は一向になかった。通学の学生に目を配っては、時には問いかけてもみるのだが、皆目無意味に終わった。学校近くに座り込んでいたわたしは不審に見られたのだろう、訊ねられるままに名前と目的を答えてみるのだが、探そうにも名前がわからないでは――、誰もがそういうのだった。わたしも同じ思いだったが、向こうでもこちらを探してくれているはずと確信的で、同時に、なぜ名前を聞かなかったのかと絶望的な気分だった。

 薄く目を覚ました後も、ずっとその少女を探そうと気を急かしていた。すべてが夢と知れたとき、わたしは年甲斐もなく淋しさに、泣きそうになってしまった。


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公開日:2002.12.01
最終更新日:2002.12.01
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