東京

 東京は都市の顔をして、よそよそしくそこにあるだけだった。行く街並み、電車の車中、そこにいつもと違う景物があったとしても、結局は見知った顔をもったなにかに還元されていく。

 女子高生は女子高生の顔をして、親子連れは親子連れの、恋人たちは恋人達の顔をして、どこかで見た素振りでもって行き交っている。そこには規格化された一様な都市の風景があり、あたかも等質の価値をもって存在するための一要素として、彼らに参加を促すかのようだ。それほどに都市は同じ顔をして、よそよそしくある。

 なんらの感慨をも引き起こさせない日常の延長線上。ただ今は知らないというだけが価値の、直きありふれた風景になる見慣れた都市の日常。大阪京都でも感じる都市の空気を、同様によそよそしくもって、東京はやはりどこにでもある都市なのだ。

 違和感なくいつもと同じにある自分を見て、いつも感じている違和感を思った。自分が確かに存在するという実感のなく、落ちた眼窩から外を覗き見ている、都市に参加しえない自分。結局のところ、ここは「そと」に過ぎない。自分には自分の領域といえるうちさえあれば、どんなところでも生きていける。大阪でさえ、京都でさえ、東京でさえもただ一つの価値をもって並存する、画一の都市空間。ここはそとの世界でしかないのだ。

 語られる言葉のなんと代わり映えのしないことか。同一の価値基準を強いる文化装置を側に育ったわれわれは、均質化する都市の部分として知らず組み込まれていく。そこには個人として存立する術はなく、あえて自分として生きようとすれば、勢い彼らの価値から離反せざるを得ない。それは都市への参加を拒むことであり、異邦人として生きるということだ。

 しかし都市とはすべてを自らの意図の範疇に、平板化する意思として存在する。都市は都市に必要な存在として異邦人を求め、その要請により異邦人は生まれてくる。かくして都市からは逃れえない。


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公開日:2001.01.22
最終更新日:2001.09.02
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