「電脳的領域に起こる、孤立的閉鎖空間」

――音楽の面から言うと、ウォークマン的時代

プリファレンス

 ウォークマンという、音楽を再生するための装置がソニーによって発売されたのは1979年7月のことである。その発売当初――まさに高機能多機能を求める時代であった当時――、そのような再生機能のみしか有しないカセットテーププレーヤは売れるはずがないと業界各社で見られていたのにもかかわらず、ウォークマンはその都会的フォルム、行動的スタイルによって青年層に指示され、大ヒットを飛ばした。実質上出遅れた業界各社もソニーに追従し、ステレオヘッドホンというガジェットは世界的にポピュラーなものとなり、その地位は確固たるものとして維持され得るものとなった。今やその販売台数は2〜3億、ソニー製の純正ウォークマンだけ見ても、おおよそ1億5千万台という少なくない数が出荷されている。

 ウォークマンの基本的機構は、カセットテープを再生しサウンドを増幅するためのアンプリファーを持つ本体部分と、出力装置であるステレオヘッドホンである。それが現在までにさまざまな改良が加えられ、いわゆる小型多機能という現代的フォルムを勝ち得て行く。しかし後に付け加えられた、その基本思想である「高音質で聴く」ための道具として以外の機能――録音機能やラジオチューナー、コードレスイヤホン、一時的に音量をゼロにするミュート機能――は、ほとんど生き残ることはなく、仮に生き残ったとしても高性能な商品を演出するための付加価値としてのみの役割を果たしているに過ぎない。実際に後に標準装備化される付加機能というのも、ドルビーノイズリダクションや、オートリバース、ダイナミックバスブースト機能、リモートコントロール、ステレオイヤホン、バッテリーの小型化、省電力設計などという、まさに高音質を追求し、再生環境のための補助機能として働くものばかりである。

ウォークマンの電脳開化

 ウォークマンを使い、そのイヤホンから音楽を聴いた者に共通の感動的驚きというのは、そのピュアな耳元で沸き上がる高音質と、まるで音楽が自己の頭部の内側で響くような新しい感覚であるといえる。この頭の中で響くような感覚は、通常のシステムでは2機のスピーカとリスナーを各頂点とした三角形に外接する円の内側に構成される音場というものが、イヤホンでは両耳を両端としてその中心に音場が構成されるという、言わばステレオイヤホンというガジェットの特性による、本来なら好まれない現象なのだが(実際旧来のオーディオマニアの中には、この現象を嫌う者が多い)、一般のウォークマン世代とも言える若年から青年層には、問題なく受け入れられている。むしろこの世代には、この「脳内で響く音」を好む傾向があると言え、カウチポテト現象と言われたテレビ視聴スタイルにおいて用いられたボディソニックは、このイヤホンの延長線上にあると言える。この二つに共通して言えることは、どちらも個人のためだけに機能する装置であるということ、音を聴くためというよりも音を体感するという性格が強いということ、この2点である。このセクションでは後者の「体感される音」という点を取り上げ、前者の「孤立化するためのガジェット」は次のセクションに後回しにする。

 音を体感するということ、もしくは脳内において音を直接知覚するといった、疑似的なあらゆる障害をパスしてダイレクトに情報を受け取るという感覚は、現在しきりに言われているバーチャルリアリティに直接的に移行している。さらにまるで肉体に依存していないというような浮遊感は、現在あらゆる若年層に起こる事象に付きまとっているように見える。それはいわゆるオカルトブームであり、心理ゲーム及び占いの流行であり、それらには直接的にではないにしろ、ある程度のウォークマン的精神構造がかかわっている。言い換えるとこの浮遊感を持ち得るガジェットを選択する精神構造を持った世代に起こり得る事象と言うことなのだろうが、その最初の発端がウォークマンだということはいなめない事実であろう。とにかく現代における少年少女の生への無関心さは、一度ウォークマンを使用したものなら分かるであろう、現実よりもリアルという不思議な感覚を得た結果であろう。ありとあらゆるものを経験しないまま成長する彼らは、その発達途中で直接脳に知覚される生々しい音、映像、によって、旧来の人類とは異なるある意味での新感覚を得た人類へと昇華する。脳でのみ生存し得る人類となった彼らは、あらゆる脳内知覚に触れることを開始した。以前流行った、3Dステレオグラム(正式には裸眼による立体視法というのだが…… 乾板写真時代からの技術であり、かつてはステレオカメラが数多く製造されていた。現在ではたいてい地学分野で用いられている写真撮影法である。)や、リラクゼイションガジェット(トンボのメガネのような光を発する丸メガネをかけて、アルファ波を出すための音楽を聴くという、奇怪な装置である)などもその行為の一つであり、一時期だけの流行であったビデオドラッグなど、それらはかなりの数が存在していた。

 そのような脳内遊びは次の世代のバーチャルリアリティ技術のままごとなのであるが、そういった技術が進歩し、脳が飛躍的に肥大するのに反して、肉体は明らかに矮小化していっている。しかし知覚される情報は明らかに人間の肉体を越えるところにあるのであり、それをまるで自己の肉体が拡張されたかのように錯覚しているところは問題である。さらに肉体の限界を認識していないということは、過剰ないじめによる死などの、異常ともいえる問題を生み出している。これは次のセクションにて述べる孤独、孤立化ともかかわる問題なのであるが、それにしても脳のみにより知覚されるリアルということがその問題の根本である。

電脳を閉じ込める肉体という檻

 前セクションでの人の電脳化とそれによる問題というものは、その脳を所有している肉体、そしてその肉体を取り巻く環境、この両者の関係も含めて考えてみると分かりやすくなる。前セクションで述べた「孤立化するためのガジェット」というウォークマンの性格をここでのキーとして考えてみる。

 ウォークマンの持つ都会的フォルムというものは、その行動性によるというよりも、個人をどのような場所、状態においても孤立化させることができるという点に起因している。これは街の雑踏や電車の中であっても限りない個人的領域を欲する現代若年、青年層の嗜好に選ばれて、さらにそれらを喚起、加速させている。かつて問題視された他者との社会関係が未熟で成熟しておらず、そのため社会生活に支障を来すという対人関係恐怖症や夫婦間におけるコンピュータウィドウなどはそれの一つの典型である。元に戻って、ウォークマン殺人という事件がかつてあったことを思い出していただきたい。電車内で若者のウォークマンが外部に発する不快な高周音にある男性が注意した所、逆に殺害されてしまったという痛ましい事件なのだが、これはまさに孤立のために――本来の意味を失って――ウォークマンを使用していた若者と、孤立と相対する環境、あるいはいったん否定された他者の存在、である男性とのギャップがもたらした、一例である。若者は自己の肉体より内部に自己の――決して他者から侵犯されてはならない――領域を形成しており、そこにあってはならないはずの他者からの干渉が生じた結果、一種の恐怖に駆られたのだろうか――殺害に至る暴行を与えることとなった。この事件で問題なのはささいな事で殺人を犯したという事象ではない。問題はたった一つのガジェットのもたらした、小さな宇宙に浮かぶ青年の姿である。

 ウォークマンは上記の点からいわゆるステレオシステムの延長ではなくなっていることが分かる。むしろウォークマンは自己を守る空間、一般的には個室の延長になっているのだ。青年は個室をウォークマンというガジェットに変えてそれをまとい、世にでて行く。それは自己を守るすべではなく、守られるべき空間である部屋からでることなしに世にでることができるという――奇妙な矛盾をはらんでいる――事を可能にする。

 しかし前セクションで述べた拡張された脳はかなりの自己表出願望を持ち、その反面他者と相対せず縮こまるだけの肉体に規程される。そのためある程度の他者とのつながりと自己表出の場を、維持、確保するために、小さなコミューンを形成しそれに属することをする。そのコミューンとは、ある同一の趣味によってつながるものであったり、一種のネットワーク上に構成されるものであったりする。前者はいわゆるマニアや同人のサークルであり、後者はパソコン通信、電話によるパーティーライン、ダイヤルQツー、テレホンクラブを含んでいる。しかしこれらのコミューンは奇妙なことに、人間関係が希薄であり、深いつながりのようで表層のみの付き合いであることが多い。これはまさに他者との社会関係が未熟であることが原因であり、このため子供のようないさかいを起こすようなこともままある。このような現代若年、青年層の問題は、もちろんウォークマンがもたらしたものではない。しかし孤立化のためにウォークマンが使用されるということが問題なのである。次のセクションでは、このセクションで少し触れた現代の病症を一望してみる。

現代のウォークマン的病症

 今ではあまり聞かれないが、かつてコクーン人間やコクーン現象という言葉があった。これこそ今までいっていたウォークマン的孤立の典型的な社会的事象である。そのコクーニングというものは、言葉のとおり繭にこもる若年層の姿を指すものであり、つまるところの他者との関係を持つことをしない、あるいは仲間のみで構成される閉じられた空間へのひきこもりである。これこそ個人主義の最も完成された姿であり、他者の存在は必要としない。だがその反面非常に孤独を恐れているのも彼らなのである。そのため前セクションで触れた小さなコミューンを求めるのが彼らなのである。

 コクーニングに似たものに、デジロイドという新しい人類を称する言葉もある。これはメディア(ここではテレビメディアやコンピュータ[ここではゲームを指す]メディアを指す)に没頭し現実との境界を失ってしまう少年たちを指し示した言葉であり、彼らは現実よりもメディア――架空の存在を重視し、現実社会においては他者への共感性を有しない。ここでのキーワードは「現実よりもリアル(第2セクションでいってましたね)」である。かつてあった連続幼女誘拐殺人事件や、女子高生コンクリート詰め殺人、エアガンによる連続狙撃事件、ホームレスに対する集団暴行事件はこの病症にかかわっているといえる。

 これらのほかに、傷つきたくない症候群、恋愛できない症候群、大人になりたくない症候群――これはピーターパン症候群ともいわれる、そして不思議の国のアリス症候群(ここで横道にそれる。不思議の国のアリス症候群とは詳しくは現実逃避をする少年少女のことを指すのであるが、これの命名者は不思議の国のアリスのことを理解しているとはいえない。不思議の国のアリスとは、言葉遊びを中心にして繰り広げられる、サイズを失ってしまった少女に起こる奇妙な出来事、おかしな人物たちとの出会いの中で、少女が自己のアイデンティティを確立させるという奥深い物語なのである。それを現実逃避とは…… 嘆かわしい限りである)などといわれるものもある。これらは社会性の欠如や、異常に傷つきやすい、あるいはデリケートであるといったこと、そして最もこれが重要な、自己完結した孤立状態を求める彼らの嗜好によっている。これらの要因が、自己の世界にひきこもりをさせ、他者とはある程度付き合うのだが実際のところそれは表層的なもので、小さな世界の王様でいられる孤立的空間にこもる若者達という事象を作り出している。しかし彼らは決して自閉を起こしているのではなく、他者との付き合いをあまりにも恐れる結果なのである。それでも彼らは孤独を恐れるあまり他者との触れ合いを求めるのだが、本質的にエゴイスティックである彼らは、互いに傷つきあい、離散してしまう結果に陥る。この恐怖のはざまに見いだしたのが、現実の否定、及び他者との深い付き合いを避けるといった姿勢である。

 最後に友達親子というものを取り上げておく。これは文字どおり親と子の間柄が友達のように親密で上下の関係がないということを示しているのだが、現実には傷つきたくない症候群という病症が親子の間にまで浸透したものである。親が子供に嫌われるのを恐れて友達のようにふるまい、子供は親とのその関係を破壊してしまうのを恐れてそれに付き合うという、極めて表層的な親子関係であり、いうならば迎合された姿である。これは数年前にいわれた娘を欲する父親――家族という状態を疑似的に維持させるためには娘でなくてはならないらしい――にもかかわるものであり、ここにもあるものは孤独を恐れる孤立という奇妙な精神構造である。

整理とまとめ、そしてわたしの履歴、あとがき

 これまでおって来たのは、ウォークマンの持つ二面性――孤立空間と脳による直接の知覚――である。そしてこれらと符合する現実的事象を捕らえようという試みであった。その結果思いもかけず見いだされたものは、まさにその結果の中にわたしが内包されているという事実であった。小さなコミューンに属する自分――恐ろしいことにわたしのコミューンはわたし一人で完結してしまうというまさに最小のコミューンである――や他者に向ける異常ともいえる攻撃性、デジロイド的指向、さらには傷つきたくなく大人になりたくなく、物は愛せるのに人を愛することができなくて、そのうえ子供は娘がいいという(まさに現実逃避と疑似家族志向である)とんでもない状態であった。最初はこういうことを書こうと思ったのではないのだが、結果こういうことを書いてしまったということは、やはりこういうことに向かう自分というものがどこかにあったのであろう。しかしここに書かれたものは以前からこういう自分に気づき、それに関連する事象を新聞やテレビ、つまりメディアから吸収して来ていた結果であり、参照した文献の大半といえばわたしの脳内に大量に蓄えられた、いつ見たかも思い出せない新聞やテレビということができる。そのメディアによって、そのようなわたしの奇妙な指向が、わたしだけに起こっている事象ではなく、ある社会に起こっている事象の側面であった事と知って、安心したような少し残念なような奇妙な気分に陥ったことを思い出すことができる。しかし感想はどうでもいいのであって、ここで言いたかったのは小さな世界の寂しい王様と新しい知覚を得た人類である。その知覚とはあくまで言葉で説明できるような感覚ではないのだが、現代の奇妙な精神構造を説明するにはこの2点は必須の物であると考える。もちろんそれは、文中でもかなり言っていたように、ウォークマンがもたらしたものではないのだが、孤立化のためのガジェットという性格を担わさせられたウォークマンというものが、この事象をかなり端的に示していると思ったのだ。そうして書いてみたのだが、少し飛躍し過ぎていただろうか。


参照した文献

朝日現代用語知恵蔵1990年度版 朝日新聞社

朝日新聞 1月7日付夕刊11頁 「見えない曲がり角 精神風景の変容4」

「ウォークマンの構造戦略」 上葉智恵子著 エキスパンドブック(自己出版)

「ウォークマンの修辞学」 細川周平著 出版社は忘れました(図書館に有り)

「ライトアップ」音楽特集号 ソニーミュージックエンターテイメント 非売品

以上アイウエオ順


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公開日:2000.07.30
最終更新日:2001.09.02
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