自分が具体的に演奏をする際
何をどのように始めるか?

今井の場合

 今回このレポートに取り上げるのは、8月25日に行われた、以前に師事していたピアノの先生たちとの演奏会についてである。

 曲目は、J.M.Damase "Concertstuck" pour Saxophone alto avec accompagnement de pianoと、同じく Damese"Vacances" そして、G.Bizet "Intermezzo" from "L'Arlesienne" suite No.2である。

 まず演奏に向けて一番最初にしなければならないことは、何をおいても楽譜を入手することである。これをなくして、演奏は始まらない。『コンツェルトシュトゥック』op.16 はヤマハ売店に頼んでも在庫がないということで、大学の図書館から借りる。『ヴァカンス』もヤマハに在庫がないということで、サクソフォンの助手をされている、美しい藤田里香さんから借りる。最後の『間奏曲』は、京都の十字屋寺町店で無事入手。このようにして楽譜はとにかくそろった。

 そして次にすることは練習という行為なのであるが、『ヴァカンス』、『間奏曲』は良いとしても、問題は『コンツェルトシュトゥック』である。難しくて指が全然追いつかない。そのためこのレポートでは『コンツェルトシュトゥック』を中心に書いていくこととする。

 とりあえず形だけでもどうにかするべく、解釈や分析などは頭の中から排除し、とにかくゆっくり反復するところから始める。たいていコンツェルトというものは、ソロ楽器の特性にしたがってかかれているため、比較的吹きやすかったりするものなのだが、この曲に関していえば、そのような配慮は皆無であるといえるくらいに、徹底して難解であった。普段なら音程やソノリテについての面から絶対に使わないような運指をあえて使用し、そのために楽譜の書き込みは運指の記号ばかりということになってしまった。

 しかし年月というものはすべてを解決してくれる。ある程度の時間を経て、何とか形だけは通るようになってくると、どこをどのように吹けばいいかということを考える時期に入ったといえるだろう。そのためのヒントは、馬鹿のように同じことばかりを反復していた行為の中から、知らぬ間に得ているものである。どの音にウェイトを置くべきか、どの音がこの場合中心におかれるべきか、などということが直感的にインプットされている。しかしこの時点ではあえてそれに従わず、今回は珍しくテーマ分析のようなことを始めた。テーマ分析といっても、いわゆる楽理の専攻生のようにやる訳ではなく(いや今は楽理の専攻生な訳だが)、大きく大きくとらえていくわけである。以前はテーマ分析ではなく、和声分析や構造分析のまねごとをしたりしたのであるが、今回それらはしなかった。理由は、和声分析はある意味でナンセンスであるのではないかと現在時点で思っていること(まるっきり不必要であるといっているわけではない。しかし調性にそれほど固執しなくなった時代の曲に、それを重視しすぎる必要はないと思うのだ。それに、練習していけばほうっておいてもそれに気づくのであり、気がつけばほかの部分についても考え始めるわけであり、あえてここでする必要はないと思うのだ。)、構造分析については今回のこの曲には不要であると判断したためである(それが必要でないくらいに明確に分かたれているということから)。

 とにかくこの時点で今井は何らかの分析を行うことにしている。理由はどういった形であれ、曲の形を自分の中で明確なものにしようという動きを表すためであり、一種の気休めであるともいえる、音楽的行動を行う自分を認識するためである。理由や目的はどのようなものでも、ある種の思考により音楽を認識する必要は演奏する際に必要不可欠であるということを考える。

 この時点の思考で得られたものを演奏に定着させるといった意味から、ここで再び練習を再開する(今まで休んでいたわけではないのだが)。その際に留意するべきことは、思考が演奏によって具象化されるかどうかということである。すべての演奏家は、多かれ少なかれ、演奏する際にどのようなフォルムを音楽に与えるべきかを考えている。それはイメージという形で、演奏者の脳内でうごめいているわけだが、演奏家はそのイメージを演奏という行為によって、この時空内に響きの実体を伴わせ出現させようとする。そのために何度も試行錯誤をしながら、練習と思考の間をいったり来たりし、螺子の回転を続けながら前へ進んでいくわけである。

 ある程度の時期が迫ると、その作業の中に伴奏あわせという別の作業を差し入れることとなる。その第一回目などは、たいていソロと伴奏のどことどこがかみ合っているか、または一体どういう雰囲気の中で演奏が行われていくかなどの確認にすぎない。しかしその第一回目の伴奏あわせで得られた情報をフィードバックすべく練習をしてきた後に行われる二回目の伴奏あわせからは少しばかり様子が異なってくる。互いが独自の思考をもって相互に異なるイメージを有し始めるためだ。二回目の伴奏あわせくらいならまだそのギャップも大きくはないのであるが、三回目四回目と続くに連れて、しだいに溝は大きく深くなっていく。最初のうちは互いに「ここをこうしたら」であるとか、「ここはもっとこう」とか遠慮がちにいうのであるが、しだいに様相は険悪を究めて行く。相手の弾き方、吹き方が気に入らない、もっとここはこういうふうに歌え、などというように言い合うようになってくるのである。しかも今回の伴奏者は元今井のピアノの先生であったため、今井が生徒であるという認識をいまだ忘れていない。その様なわけで、今回は圧倒的にこちらが弱い。しかしいわれたままに演奏するほど素直な人間ではないので、その間に軋轢が生じてくる。であるから、伴奏者は同格の人間に限るのである。言い合うことになんの躊躇もいらない同格の人間であるならば、軋轢が生じ不仲になったとしても、上下関係がないぶん互いに楽である。

 演奏に技術は不可欠である。演奏は心であって技術ではないなどという人間もいるが、断然演奏は技術である。心を否定するではない、心を表すために技術が必要なのである。演奏会が近くなると、リハーサルのようなことをする。そしてその際には、さらなる客観性を持たせるべく、録音ということがなされる。しかしこれが始末に負えない。下手なのだ、どうどのように聞いても下手くそなのだ。頭の中で鳴っている演奏と、現実に鳴っている演奏の形が、あまりにもかけ離れすぎているのだ。つくづくわかってはいることだが、どうしようもなく下手なのだということを眼前に突きつけられる気分は、決していいものではないのはあたりまえだ。このときに悩み始めるのである。技術の伴わない演奏には一体どのような意味があるのか。ある一定の思考段階を経て、それをなんら表現できないような演奏に価値はあるのだろうか。かりにその技術なき演奏の価値が認められたとして、果たしてその演奏は演奏会という公にされる場にさらすことが許されるものなのだろうか。むしろその様な演奏は、個人の楽しみのために、公にせず、自らの領域において行うべきものではないのだろうか。それに対する答えを導き出せない今、演奏に大して前向きになることなどはできない。

 いつも、ある一定時期を過ぎ、演奏会が目前に迫ってくると、その時点で練習している曲の吹き方に対して、疑問を感じ始めてしまう。どういうことかというと、今回の場合は、音楽的に聴こえるようにと作為的にいじりすぎたのではないかと思い、その作為的なものを排除しようとしたことである。ある種の感情的な演奏を見せるのが当初の目的であったわけだが、ここで無感情的ないうならば器械的な演奏を目指そうと思ったのだ。そのためルバートをすべて取り去り、インテンポの演奏をすることに決めた。しかしここで伴奏者とぶつかる。どうもその処置が気にくわなかったらしい。何度か険悪なムードの中で、もっと歌えといわれたり、これはこれでいいのだといったりしながら、それでも今井は従わなかった。下手は下手なりにソリストである以上、伴奏者がこういったから、はいそうですかというわけにはいかない。演奏には主体性が必要だと常々考えているおかげで、こういうときは非常に窮する。

 しかし、そのようにインテンポの演奏、いうならばストイックな演奏を目指したとしても、何らかのイメージを脳内に保持し続けている限り、その演奏が機械的になりすぎることはまずない。実際今回の演奏の結果も、ある種の感情的な演奏ではあった。

 演奏会が近くなり、あと一週間というくらいまで迫ると、いくらなんでも演奏会のためにリードを選び始める。最近はフランスの核実験反対の意を示すため、フランス製品不買運動が盛んであり、今井もその動きに賛同しているため、フランス製品であるリードを購入することはためらわれたが、リードがなければサクソフォンの演奏はなりたたないため、心を鬼にして、いつもは二箱単位で買うところを、今回は一箱だけ買った。リードの選定という作業でもっとも重要視することは、そのリードが良い音を出すことに適しているかということである。そして次には息が良く入る、良く鳴る、音程の補正が容易、などと続いていくわけであるが、今回初めに買った一箱のリード(十枚入り)の中には、残念ながらそれらの条件をただの一つたりとも満たしたものはなかった。仕方がないので、もう一箱、心をまた鬼にして買うことになるのだが、阪急イングスの定休日と重なったりと不幸なことが続き、結局二箱目は8月24日、つまり演奏会前日まで入手できなかった。その二度目に買った十枚の中には、幸いなことにかなりクオリティの高いものが、たった一枚だけ入っていた。しかし、一箱が千五百円、二箱ならば三千円である。それだけの対価を支払わせておいて使えるリードがただの一枚とは、一体どのような了見であろうか。確かにその製造過程の中で不良品をはじくのは簡単なことではないであろう。しかし、現在どのような工業製品であっても、初期不良があればそれを無償で保証し交換している。それが一枚にして百五十円、しかも決して安定している素材とはいえない植物を原料としているリードであるとしても、不良品を無償で交換するというのは、ある一定の対価を支払わせたものに対する企業体の義務ではないだろうか。もしそれで一度使用したものは交換できないなどというのならば、初期出荷段階での不良品の混入率を下げるというのが筋であろう。しかしこのような対応の悪さは、音楽産業全般において見受けられる。たとえば楽器であるが、最近は品質も安定しているとはいうものの、その品質にばらつきがあるということから選定を行うというのが常識になっている。先日もアルトサクソフォンを選定する機会があったのだが、そのうちの一本は良品であるとは言い難いものであった。それが現在、定価三十八万円。企業の倫理観を疑う。しかしこのようなハードに対する問題だけではなく、音楽のソフトに対する問題も現実に存在しているということは、この国における音楽文化の成熟度のあまりの低さを露見させている。

 というわけで閑話休題、演奏会当日となる。演奏会当日ともなればもうじたばたしても始まらないため、落ち着いたものである。とはいうものの、この日は腹を壊したり発熱したりとさんざんな日であった。しかしそのようなことは常に起こり得ることであって、演奏に反映はさせない。そのためゲネリハに入ってからは体調に気を配り、音だしなどウォーミングアップを念入りに行う。リハーサルは思っていた以上の失敗も、空中分解することなどもなく、無事済み、このまま順調に本番にはいるだけという状態で、ひとまず安心することはできた。そして本番となるのだが、緊張しない舞台はないというように、今回も激しく緊張をする。しかしそのまま緊張にのみ込まれてしまわないように気を静めるために呼吸を整えるなど、何らかの策を講じる。
 舞台の上ではもう何も考えない。失敗したら冷静にそれをごまかし、うまくいったら何事もなく、聴いている人間にとっては長い時間であったとしても、演奏しているこちらとしては、あっと言う間にすんでしまって終わりである。

 そして評価となるのであるが、今井に対しては、若々しさのあるストレートな演奏ということがいわれたそうである。今回の演奏で目指した、無感情ともいえる機械的な演奏には聴こえなかったわけである。今井としては常に枯れた演奏を目指しているのであるが、いつもそのようにいわれることはなく、その点においては残念である。

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 以前ならここで得られた評価を反映すべく次の曲に取りかかるのであるが、今回は先に述べた理由により、一度演奏という行為から離れて演奏を考えるために、それらを凍結する。


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公開日:2000.08.03
最終更新日:2001.09.02
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